【HSS・HSP】やはり自分がHSS型HSPだと思う時 ~喩え、自分勝手な奴だと思われても~
本年最初となる仕事の一週間を終え、部屋でカタカタとキーボードを叩きながら。
燃え尽きたぜ……真っ黒にな……
といった思いと疲労を感じたのは、これが初めてなのかもしれません。
おまけにどうぞとばかりに、大雪に強風で通勤列車が遅延や運休で通勤も支障だらけと、2021年幕開けから災厄ばかりですっかり萎えている【やさぐれ紳士】白兎です。
皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。
しかしながら、年始から早速、色々と気付かされることが沢山ある一週間とも言えました。
年末年始休暇を経て、凝り固まった考え方や価値観がほぐれたせいか。
プライベートでも仕事でも、やはり自分はHSS型HSPなのだと自覚したこと。HSS型HSPとは何なのかを考え直させられることとなりました。
今回は年越しを経ながら、HSS型HSPという自分を客観的に見られたことを。今まで当たり前だと信じ、仕方ないと諦めていたことでさえ、HSS型HSP所以の捉え方や価値観であったことを、綴って参ります。
- 四六時中、身内でも近過ぎると精神が参る
- 職場の人と会う時間。嬉しくて楽しい半面、時間が経つに連れて嫌気が差す自分
- 夢中になれる仕事を見つけた時は、周りのことなど関係なくのめり込んでいた
- 自分勝手な奴と思われても、侵されたくない思い
四六時中、身内でも近過ぎると精神が参る
学校でも職場でも、休みに入ると嬉しくなると思います。少なくとも私は「世間の柵から解放される」という思いが先立って、ホッと緊張が途切れると同時に。
「休みは何をしようかな」というワクワク感と、高揚感のような感情を抱きます。
ブログを書きたい。買った本を読みたい。好きな音楽を飽きるまで聞いていたい。
好奇心が真っ先に向いたものに飛びつこうとする辺り、私は計画的に時間を使うということが物凄く苦手だということを実感しています。
他方で、これらのことは飽く迄「私という人間が一人で行いたいこと」という前提条件が付いていることに気付きました。
ブログは自分と向き合いながら書きたい。本は雑音がない状況で読みたい。身内のことを気にすることなく、自分の好きな音量で音楽を聞きたい。(爆音で流すつもりはありませんが……)
そう考えると、と思った時でした。
私にとって身内は掛け替えのない存在であり、表向きには言えない汚らしい罵りや憤りをこちらから発しつつ、同じように溜まった鬱憤を受けることで精神的な「ギブアンドテイク」を行って参りました。
然れど。
より深く、私が打ち込みたい。自分自身と向かい会いたいという時は、身内であっても「独りになりたい」という思いが一層強くなるのでした。
そして一度自分がやりたいことに集中し始めると身内そっちのけ で夢中になり、ご飯やお風呂の声がけにも適当に返事をして怒られる程になります。
自分がやりたいことに熱中している時、私の中では生活で当たり前のことでさえどうでもよくなってしまうのです。
身内からも「気分屋」と言われるのは、多分この辺りにあるのかなと邪推しています。
職場の人と会う時間。嬉しくて楽しい半面、時間が経つに連れて嫌気が差す自分
続いて、社会人として、お金を稼ぐ為に行く会社。ネットニュースではブラック企業についてや人間関係の悩みについて綴られた記事を多く見かけます。
特にコロナ禍となり今も尚その状態が続いている昨今では、この手のニュースが非常に増えたような印象が強いです。
さて、私はと言いますと。
社員が自分の両親程の方々が大半を占めるというとんでもない人員構成の事業所で、仕事への考え方から物事に対する価値観が全く異なる人たちばかりです。
逆に同期となる同世代の人間は数名しかおらず、後輩に当たる20代の社員が十数人です。
私の場合、同世代に対してはトラウマがあるので自分から歩み寄っていくことができません。また末っ子として生まれ育ち、学校の部活でも後輩らしい後輩もいなかったことからどう接すれば良いのかわからない……という悩みの一種とも言えるものを持ち続けています。
私もそうなのですが、発言も何を伝えたいのかわかりにくいものが多く、つい言葉の裏を探ってしまう私には苦手な存在となっています。
反対に先輩たちベテラン層は、こちらに対して遠慮なく、はっきりと物申してくれます。加えて若手(一応私も若手に部類されるみたいです。都合のいい時だけですが)の第一号だった私に構ってくださる方も多く、良い意味で可愛がっていただいています。
そんな私も父親像を知らないということも重なって、ベテランの方々との人間関係は比較的良好です。相手が冗談交じりで弄りに来ているのかも声色や顔色を見れば判断でき、社内LANを管理するという特殊な役柄上相談も多く、個人的には楽しく仕事をさせてもらっている、つもりです。
しかしながらここでも、天の邪鬼精神が顔を出し始めることとなります。
人付き合い自体は嫌いではない癖に、時間が経つにつれて何となく嫌気が差すと言えばいいのでしょうか。とにかく、人といる時間が長くなればなる程気疲れを引き起こしその場から離れたくなります。
今年の場合は年始の挨拶が、その最たるものでした。
長期休暇後に、元気な顔を見合いながら「今年もよろしくお願いします」と交わし続けていく朝の時間。
担当内の方と交わし終えた辺りで、私は既に人酔い状態になっていました。本の十数分なのに、首都圏の駅構内を移動する際に不特定多数の人々と行き違って一気に疲弊する、あの状態のような状況に陥っていました。
仕事初めからこれじゃあ……と思いながら。人が好きなのか嫌いなのか、自分でもよくわからない。
傍から見れば「変わり者」と思われ、言われるのも仕方ないと思う瞬間でした。
ちなみに私は、周りの社員と比べて有給休暇の数が極端に少ないです。
何故なら、仕事だけでなく人間関係でのやり取りで疲れを感じた瞬間、「うん、休み取ろう」と自己防衛するかのように有給をすぐに取ってしまうからです。
周りからは「そんなに休み取って何してんだ?」と聞かれることがあります。
でも、違うんです。一人の時間を補う為に休みを取っているんです、私。じゃないと、自分という存在がどこかへ行ってしまいそうで、消えそうになってしまいそうで、怖いんです。
夢中になれる仕事を見つけた時は、周りのことなど関係なくのめり込んでいた
先程のことがHSP起因であるとするなら、続くのはHSSの性質が出た場面です。
私の通う会社では 、この時期になると産業廃棄物の処理に向けた準備が始まります。昨年決済を取った産廃物を集め、業者が回収に来る日に一気に捨てられるようにしています。
今年は社内LANが一気に更改されたこともあり、沢山のパソコン類も廃棄することとなりました。社内LAN管理をしている私に、早速大仕事とも言える仕事が舞い込んで参りました。
今から十数年前程前までは、産業廃棄物としてのパソコンは引き渡し後に破壊されるという認識が根強かったことから、特にデータの消去や破砕をすることもなく業者に引き渡していました。
しかし最近では個人情報や会社情報の漏洩が大問題になることが、非常に多くなっています。特に会社の機密情報が漏洩するようなことがあれば一気に社会的信用を失うこととなります。
そこで最近はパソコンに取り付けられているハードディスクドライブやSSDを抜き取り、外部からドリル等を用いて穴を空け読み取りできなくするという、物理的破壊が義務付けられています。
少し前に流行った、データ完全消去ソフトウェアは、はっきりいって役に立ちません。詳しい人間がその気になれば、簡単に復元できてしまうからです。
そんな訳で、朝から捨てるパソコンを並べてHSSやSSDを引き抜く作業から始まった訳ですが。
パソコンをバラして、マザーボードが見えて各種配線が露出して。問題のHDDやSSDを探すのですが。
デスクトップ型とノート型ではバラし方全く異なり、設置位置も取り外し方もメーカーごとや機種ごとに違うことが多くあります。
四苦八苦して、どうやって取り外すんだと試行錯誤していく内に。
私はすっかり、時間など忘れて集中モードに入り込んでいました。
この時は、本当に周りのことが視界だけでなく五感から全く入ってこなくなります。目の前のことしか頭になくなり、感情も楽しいのやら嬉しいのやら、とにかく高揚感のようなものに支配されて眼前のこと以外考えられなくなります。
とにかく、楽しい。パソコンをバラして「このメーカーのパソコンって、中身こうなってるのか」と新しい発見が、能を刺激して止まない。
たかがそんなことに、と振り返ると自分でも思ってしまうことですが、それでも好奇心と刺激を満たしてくれるものに出会うと本当に周りが見えなくなることを、自意識がある中で実感できたのはこれが初めてのことでした。
その直後、産廃物品のリストと突合を行いながらパソコンをバラさなければならなかったことを指摘され、偉く叱られることとなりました。
それ程にまで、私が自負するHSSの側面は強力なのだと思うのでした。
自分勝手な奴と思われても、侵されたくない思い
年始の仕事を振り返って、改めて自分が自分勝手で自己中な人間なんだなと思い返しています。
多分きっと、周りの人たちは私のことを「気分屋の変わり者」と認識していると勝手ながら思っています。或いは自分勝手でどうしようもない奴と思う人もいるのだろうなと感じています。
でもこれが、私のHSS型HSPなのだろうなと思います。開き直るつもりはありませんが、言い訳もしませんし取り繕うようなこともいたしません。
だって、これが本当の自分なのだから。
それをこうして文章化し、自分でも納得できる形となる経験を積めたこと。そして然程違和感なくいられる自分がいることが、何だか清々しい思いを抱いています。
ここ一ヶ月位でしょうか。スマートニュースでも、HSPについて取り上げた記事が目につくようになり始めたのは。
そこにはHSPに特化した内容が綴られており、成程これがHSPというものなのかと誰もが比較的簡単に、以前よりもHSPというものに触れる機会が増えて来たことを実感しています。
しかしながら、やはりHSS型HSPやHSEについてはまだまだ浅い。
仮にHSPかも、と自己診断したところで、完璧に当てはまる人の方が少ないはず。
その自己診断で当てはまらなかった人は、「じゃあ、自分って何なんだ」となるのは目に見えています。
HSPの側面を持つ身として、紹介されることは嬉しいことです。
然れどHSPを軽く扱っていただきたくないという反抗心もあるのも、また事実です。
HSPに焦点を絞るのではなく、HSPに「+α」が沢山あることが、どんどん広がって欲しいし、願っています。
だから、HSSの側面も併せ持つHSS型HSPの私は。
ブログを通して、経験を通して。今年もHSS型HSPについて、日常視点で綴り続けたいと思います。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
【ブログ・生き方】本年もよろしくお願い申し上げます。 ~ブログ開始から、一年経った今年の抱負~
年も明け、2021年の三ヶ日も疾風の如く過ぎ去りました。
いつも以上に、寒く。いつも以上に、人気のない街並み。
コロナ禍が終わることなく迎えた今年は、普段以上に「いつも」といいう定義が大きく変わり果ててしまったことを痛感しています。
皆さん、こんばんは。【やさぐれ紳士】白兎です。如何お過ごしでしょうか。
そして、遅ればせながら。
皆様に置かれましては、昨年は本当にお世話になりました。
本年も変わることなく、何卒よろしくお願い申し上げます。
ここ最近の記事は代理君に挨拶してもらっていますが、これ、正直な感想を皆さんにお伺いしたいことがあります。
普通に文章で綴るか、このように喋らせるか。
もう少しキャラを作成してアフレコしようと考えてはおりますが、ご意見いただければ幸いです。
さて、2020年が今を生きる私たちにとって未曾有にして最悪、災厄の一年となりました。
正直な所、私は引き続き慎重な行動 -自己防衛本能から来る自らを規制すること、考えなしにの外出はできない- をしなければならない一年になる予感がしております。
延期された東京五輪・パラリンピックなど夢のまた夢。
耐え忍ぶと言いますか、我慢を強いられることが多くなると個人的に思っています。
然れど同時に、それももう限界が来ている気がしてなりません。
自粛に自粛を「要請」ばかりされ、特権階級や上級国民ばかりが好き勝手やっていることが報道されていることが、この国を確実に崩壊に向かわせているようにしか思えなくなって参りました。
それはそうだと思います。
とある記事ではお若い方々が飲み会に繰り出していったところを取材され、「お偉いさんが好き放題やっているのに、若者ばかりが自粛を強いられるのはおかしい」というものもありました。
わからなくはありません。
しかしながら、その行動も結局「他人の行動を言い訳」にしているのでは、と思ったのが、私の正直な感想です。
そこにあるのは、何かあった時に「他人のせい」にしたいから?
そうではなく、言いがかりを作りながらも「自分がそうしたいから」飲み会に行った?
非難するつもりはありません。ですがこの記事を見る限り、私は後者なのではないかと真っ先に思いました。
昨年から始めたブログで、私は生き方や育った環境、職業といった違いだけでなく。
同じ人間という種族であっても、価値観や考え方の違いがあること。
それを認めるか否か、受け入れるか否か。その度合だけで、人の行動というものは容認されたり非難の的になったりすると思っています。
私だったら、そうですね。
人と面向かって飲むことが好きではないので、まず飲む為に街へ繰り出すことはありません。
とは言え、それも人それぞれの価値観。
私は大切にしたい、されたいと思う人との繋がりがありさえすれば、当分会うことができない状況でも気にはなりません。
寧ろ無駄な会食やら宴会が減った分、失礼ながらも個人的には嬉しいことです。
一方で人と会うことで、直接的な交流を経て生きる為のエネルギーを得て、明日への糧にするという方もいらっしゃるかと思います。
こう考えるだけでも、「飲み会」というもの一つとっても大きく異なります。
どちらが良くて、どちらが悪いとも言えない。そんなグレーゾーンばかりのご時世。
私は、本ブログを通してそのような微妙な塩梅な部分を。
どちらかと言えば、少人数派に入るかもしれない「HSP」や「HSS型HSP」の視点に立ちながら、今年も綴っていければと思います。
最近になり、書籍にてHSS型HSPを纏めている書籍を購入いたしました。
「かくれ繊細さん」という本です。
まだ序盤の序盤しか読んでおりませんが、これまであまり深堀りされていなかったHSS型HSPやHSEについて書かれています。
次回以降、この書籍だけでなく、他にも入手した情報を元にしながら。
私が、私なりに考え文章化した思いを、綴っていきたいと思っています。
最後になりますが。
2021年。この一年が、このブログを訪れてくださった全ての方々に。
HSPやHSS型HSPで悩む方々に。
そして、ブログを通し仲良くさせていただいている皆さんにとって。
幸せな、より良い一年になることを、心から祈願させていただきます。
【ブログ・価値観】思いを、言葉に ~自分を出すことの怖さを乗り越え、一年が過ぎて~
今年も、残り僅かですね。
そう思っていても、どこか不思議な気がしてならない時が時々あります。
一年も、一時間も、一分も一秒も。
全部、私たち人間が定めた勝手な規則に過ぎないこと。それなのに、年末年始から始まって四季折々の行事が来る度に、私たちは喜んだり楽しんだり、時には泣いたり悲しむことさえあります。
ただ、人という生き物はそうやって自分が生きている今を。瞬間の連続である人生を歩みながら、変化や恒例となる行いを味わい吟味することで「生きている証」を刻んでいるのかもしれません。
時間の概念が消え去ったら、きっと多分、私たちは生きていけなくなるのだろうな、と思っています。
年末を迎えることで今年を振り返り、数時間後には来年となる。それだけで、「また新しい一年が始まる」という繰り返しを行いながら、これからも人生というはてなき道を歩いていくのだろうな、などとほろ酔い気分で一人ひっそりと考えている今宵です。
皆さん、こんばんは。【やさぐれ紳士】白兎です。如何お過ごしでしょうか。
年末年始ということも鑑みて、和装の代理の子に挨拶をお願いしました。
ちなみに全体像はこのように仕上げております。
さて、個人的趣向は程々に。
2020年という一年、皆さんは如何お思いながら終えようとしていらっしゃいますでしょうか。
個人的には、世間に対する皮肉や嫌味、訝しさが物凄く大きくなった一年だったと思います。
私が正直に思った思いを、代理を通じてお伝えできればと思います。
今回代理を務めたのは、シロクマ君です。
私の友が好きであり推しであることから、急遽搭乗してもらいました。
一方で、自分という存在に焦点を当てて振り返ると。
新鮮、と言っては難ではありますが……それでも、一歩どころか何メートルも跳躍する程にまで、また前進することができた。
そんな一年となった気がしています。
一番は、ブログというものに出会い自ら思いを紡ぐようになったこと。
もう一つは、内容が限定的でありながらも交流させていただいた方々に出会えたこと。そしてこれまでは自分の心の内に仕舞い続けてきた思いを、進んで発信するようになったことです。
読書感想文のような文章は苦手としながら。
自分の思いを、ここまで外部に向けて文章化して発信するとは、ブログを始めるまで思いもしませんでした。
上手い下手は別として。約一年を通して約150の記事を上げ、思いを言葉にして参りました。
それだけで私は、文章を書くという喜びと楽しさだけでなく。
どうすれば伝わるかを。似た表現を如何に工夫するか。
試行錯誤しながら、私事ながら楽しませていただきました。
同時に。
一方通行の発信を、自分が満足するようにするのではなく。
周りを、本ブログの読者になってくださった方々を、コメントを拝見していく内に。
SNSの。仮想的な情報発信の源であるブログであったとしても。
実際に面向かって会話するコミュニケーションと、大差はないことを。
言葉のドッジボールではなく、キャッチボールであることを再認識することができた、気がしています。
一方で、ブロガーの皆さんには新参者である私を受け入れいただいたことのみならず。
コメントやDMでのやり取りだけでなく、Twitterで活躍されていらっしゃる方にも紹介してくださいました。
元々身内と言うに等しい方だけの付き合いしかできなかった私が、SNSという情報の海に進出することができました。
私のブログではHSPやHSS型HSP。Aセクといったマイナーな内容を取り上げさせていただきながら。
一年足らずで皆さんと交流を深めることができたことに多大なる感謝を表しながら、御礼申し上げる次第です。
来年は、そうですね。
より自分が発信していきたい事柄を前面に出しながら、今年躍進できたように思いを言葉にしていきたいと思っています。
未だ収まらることを知らない新型コロナウイルスという災厄。
2021年は。平成33年、昭和96年という一年は、皆さんにとって幸せな一年であることを願いながら。
今年お世話になった全ての方々に御礼を申し上げながら、短いながら本記事を締めさせていただきたく思います。
【HSS・HSP】HSPの4つの特徴について、自己分析 ~DOESを客観視することでわかること~
今年もいよいよ数日で終わりになりますね。30歳を超えてから、一年が過ぎ去る速度が物凄く早く感じている今宵です。
本日は照明器具を一気に交換しようと家電売場に行って参りましたが、蛍光管ではなくLED照明の製品が大半を占めていることに驚きを隠せませんでした。
時の流れも世間の進歩も、知らぬ間に進んでいることを改めて知ることとなりました。
では今回も、代理を通し挨拶申し上げます。
hss-hsp.hatenablog.com
HSPと一言で括られがちですが、その度合は人それぞれ、千差万別です。 まして私が自負するHSS型HSPやHSEとは、HSPのみに焦点が当てられた特徴だけでは必ずしも当てはまらないものも出て来てしまいます。
とは言え、「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」という故事成語がある通り。 自分のことを、HSPのことを知っているだけでも、闇雲に自分探しをするようなことをせずともより容易に、的確に自分というものを知ることができると考えています。
今回はHSPを構成する、4つの特徴を簡単に触れながら、私自身のそれぞれの特性の強弱を分析してみたことと。 自己分析した結果、もしかしたら「自分はHSPなのかも」とお思いの方の、参考になればという思いを乗せながら、綴って参ります。
HSPの判断材料となる、「DOES」
最初に、HSPと判断できる概念であるDOESについて簡単にお話しさせていただきます。
HSPという特徴を簡単に纏めている文献では「繊細」「生き辛い」といった抽象的な表現で紹介されていることが多くあります。
しかしながら、人間の精神は人知を超えるとも言える程複雑です。
その為、まずはDOESと呼ばれる4つの概念を知り、それに当てはまるかどうかを判断していく必要があります。
然れどこのDOESというものも、飽く迄自分が当てはまるか否かを見る為の指標の域を出ていないと、私は思っています。
ですのでまずは気軽に、少しでも当てはまったり「そう感じたことがあるかも」程度で良いと思いますので、あまり深く考えずに直感で答えていただくと良いかと思います。
では実際に、それぞれの特性について考えていきたいと思います。これらについては曖昧な表現が多い中、「ウサキさん☆」さんが具体的な表現を示してくださっているので、勝手ながら使わせていただきます。
最初のDは「処理の深さ」を表すDepth of processingの頭文字を取ったものです。
具体的には、
・納得いくまで考え込んでしまう
・考えすぎて悩んでしまう
・洞察力がある
・いったん理解すると誰よりも理解している
といったものがあります。
次のOは「神経の昂り易さ」、Overstimulatedです。刺激を受けやすい、とも約されます。
・危険を察知するのが早い
・神経が興奮して疲れてしまう
・常に安心を求める
・基本的にビビリ
このような例が上げられます。
続きまして、E。Emotional reactivity and high Empathyの頭文字を取り「感情的反応性・高度な共感性」と表現されますが、難しい言葉ばかりでよくわかりませんよね。
要は「感情が強く動き・共感する」というものです。
・感極まりやすい
・人の気持ちを察やすい
・周りの雰囲気につられやすい
・八方美人と言われる
例としてはこのようなイメージです。
最後のSは「些細なことにも心が揺れ動くか」といった意味のSensitivity to Subtle stimuli。単純に繊細かとも言い換えることができるかとおもいます。
・繊細なアートや感性を好む
・周囲の変化にいち早く気づく
・ちょっとしたヒントから多くを理解する
・気配り上手
といったものが例となります。
これらを見て、全ての例に当てはまることが条件ではありませ。DOESという4つの特徴、そのそれぞれの例に一つでも当てはまることがあるのなら、HSPである可能性があります。
私の「DOES」
では、私自身が上記の例に沿って自己分析していきたいと思います。
当てはまる度合いに応じて高い順から「A・B・C」、そして全く当てはまらない(そう思ったことはない)と思うものには「-」として表現させていただきます。
Dについて
・納得いくまで考え込んでしまう:A
・考えすぎて悩んでしまう:B
・洞察力がある:A
・いったん理解すると誰よりも理解している:A
Oについて
・危険を察知するのが早い:A
・神経が興奮して疲れてしまう:B
・常に安心を求める:B
・基本的にビビリ:A
Eについて
・感極まりやすい:C
・人の気持ちを察やすい:A
・周りの雰囲気につられやすい:A
・八方美人と言われる:-
Sについて
・繊細なアートや感性を好む:B
・周囲の変化にいち早く気づく:A
・ちょっとしたヒントから多くを理解する:A
・気配り上手:C
このようにして見ると、私の場合はD>O>S>Eの順番で強い傾向があるようです。
ここで何を言いたいかと言うと。
一般的に言われるHSPの特徴である、感受性の高さや共感力の強さ。
それは必ずしも、HSPと自負する、あるいは「そうかも」感じた方であったとしても全てが全て当てはまることはないということです。
などと書き連ねている私は共感を第一に掲げていた割に共感力を示すEが意外と低かったことに。少し驚いています。
人と違うことを受け入れることが、HSPの始まり
今回は簡単に例を上げさせていただき(うさき☆さん、勝手ながら御礼申し上げます)、HSP の特徴とHSS型HSPを自負する私という人間の自己分析を綴らせていただきました。
各例に対し5分足らずで評価してみましたが、意外な結果が出たと私自身驚くと共に「思っていたのと少し違う」という思いを抱いているのが、正直な感想です。
病気ではなく、気質であるHSPは自分でもわからないものであることを、再認識する切っ掛けとなりました。
同時に、HSPでもHSS型HSPでもHSEでも、自覚し自負していても本当の思いや考え、傾向が必ずとも一致するとは限らないことを、改めて知ることができました。
逆に言えば。
世間が提唱することやネットで紹介されていることが、全てではないということ。
そして。
実際に生きている中で、少しでも「周りとどこか違う」「周囲とズレている自分は、おかしいかも」と思っていらっしゃる方がいるのであれば。
それは、貴方の個性であり人とは違うものを持っている証です。
確かに生き辛いかもしれません。息苦しいかもしれません。
でも。気休めは嫌いなのではっきり申し上げます。
「その思いを、感覚に負けて周りに合わせる必要性」などありません。
私は寧ろ、天の邪鬼精神もあり人と違うことを嬉しく思っていますし、「違って何が悪い?」「周りに合わせる必要なんて、このご時世必要ないでしょう?」と思っています。
HSPは、まずは人と違うことを知って、受け入れること。
それを「世間体」というものを相手に天秤に掛けずに、臆せず自分を主張していくことが大切だと思っています。
日本人は普遍的で飛び出た杭を撃ち抜いてでも平準化しようという傾向があるかと思っていますが。
自分を殺してまで、人に合わせる時代は一昔前に終わっていると私は考えています。
なら、「人と違う自分」を第一に生きていくことが、より大切なことだと思います。
最初は簡単ではないかもしれません。私も自分がHSP、ましてHSS型HSPであることを受け入れるまで、途方も無い遠回りをしながら、数年掛けてようやく辿り着きました。
ですがきっと。
貴方が生きる上で覚えた「違和感」。それは必ず、いつの日か誇りにさえ思える日が来ます。
人との違いに苦悩する余りに、世の中に絶望し自害しかけた私のような人間でも。
こうしてブログを通じて思いを、HSPについて書くことができるようになった程なのですから。
最後の締めは和服Verの代理と言葉を以て、締めとさせていただきます。
【HSP・価値観】飲み会が減って心安らぐ日々 ~気疲れだけの付き合いは、もう沢山~
クリスマスイブということもあり、帰りの道路は混雑しておりました。
恐らく、家族や恋人が美味しい料理を食べる為に。交流を深めて、家族愛を、恋仲を深めて。特別な一日にしようとする人々が行き交っているのだろうな、と冷めた目で世間の忙しさを見据えていました。
家族という概念が崩壊し、血の繋がった者同士でさえ食卓を囲むことすらなくなって久しく。食に対しても正直好きなものを食べられればそれで良いと思う私には、格別な料理は却って違和感しか覚えらません。
更に同期や後輩が次々と結婚していく中で、恋愛や婚約といったものに関心どころか渇望も湧かない私には、12月24日はいつも通りの一日。
時間と労力を使って奔走するよりも、一人部屋でお気に入りの音楽を聞きながら、お酒を嗜むことを心から楽しんでいる【やさぐれ紳士】白兎です。
皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。
以前初めて動画を埋め込みましたが、今回は別の手法を用いて動画をブログに載せる方法を模索しておりました。手始めに私の代理となるアバターを作成し、声を入れ込んだものを披露させていただきます。
題材は、私の好みであるオオカミを擬人化したものです。使い慣れたら日常的な会話も声を吹き込んで載せられればと思います。
さて、クリスマスが終われば、休む間もなく年末年始。世間は車の往来も激しくなり、お店は混雑の嵐。
コロナ禍と言えど、家族や親しい人との暖蘭は、大事にしたいという思いが滲み出ているようにも見えます。
周りに大切な人がいるというだけで、私のような人間からすれば羨む程です。家族愛こそあれど父親はいないも同然と認識し、人を(恋愛的な意味で)好きになることがわからない。
一昔前の当たり前の幸せが、わからない私には。
その分、という訳ではありませんが。一人でいることを楽しみ、リラックスしたり創作の時間に十分当てられる、周りを気にすることなくできる特権。
そんなものを噛み締められるのも、HSS型HSPを自負する私にとって、前向きな考えと行動となっています。
そういった人付き合いと年末年始と言われて、私が真っ先に思い浮かんだもの。
それは忘年会や御用納めを始めとする、お酒を飲みながら周りの人たちと互いを労い語り合う、ある意味社会人の行事たち。名前はその時々によって変わりはしますが、要は会社関係の飲み会です。
今年は新型コロナウイルスを罹患する危険性を鑑み、全て中止となりました。
その事実に、ホッと胸を撫で下ろすのでした。
今回は人によってはストレス発散の場となり交流を深める時間となる、飲み会について。
一部の人は集団での飲み会そのものがストレスとなっていること。そして、そのような時だけ妙に仲良さげに盃を交わすことに、違和感と嫌悪を抱き続けたことを。
HSP、HSS型HSPを自認する私個人という立場から、綴って参ります。
※注記※
本記事は批判的な言葉が並ぶことが多くなりますが、飽く迄一個人の意見に過ぎないことを、どうかご了承願いたく思います。
もし本記事により不快感を覚えた、または「それはおかしいだろう」というご意見をお持ちになった方は、お手数ですが問い合わせフォームよりご意見いただければと思います。
内容を鑑み、場合によっては本記事を削除いたします。
※注記終了※
- 飲み会という付き合いが、断ることなど烏滸がましいと思っていた二十代前半
- 心を病んで、飲み会から離れたことで感じたこと
- 大勢も騒がしさも苦手なHSPには、飲み会は苦しいだけの害悪
- 気疲れだけの付き合い、辞めにしませんか
飲み会という付き合いが、断ることなど烏滸がましいと思っていた二十代前半
十数年社会人をやって参りましたが、常々嫌気が差しながらも。
その年で退職してしまう先輩たちとの最後の付き合いという思いの方が先走り、私は自分の感情を上書きして飲み会という名目の付き合いに参加し続けてきました。
その場でお酒を飲み、料理を食べながら話す上司や先輩は、皆揃って上機嫌。不満気に眉を潜めたり、不機嫌さを顕にするような表情を浮かべる人はいませんでした。
そう、表面上は。
ですが遠くから聞こえてくる話を聞いていると、仕事のやり方や会社の考え方に不満を漏らす声。最初こそアルコールの勢いで機嫌良かったはずなのに、いつの間にか怒声やら罵声が飛び交うことも少なくありませんでした。
当時からお酒を飲むことは好きな私でしたが、そのような空気を目の当たりにしてから疑問が浮かぶようになっていました。
お酒って、楽しく飲むものではないのか、と。
素面では言えないようなことを言う為の起爆剤のような使い方をするものじゃないよね?と。
とは言え、相手は自分より一回り以上年上のベテランであり年配の方々。とてもそんな思いを吐露できるような雰囲気ではありませんでした。
時には我慢できず、感情任せに「飲み会の場で仕事の話をするってどうなの?」と口走ったこともありました。そんな時は「若造が」とばかりに頭引っ叩かれました。
今でこそ「アルコールに踊らされた老害が」と汚らしいながらも然程気にすることはなくなりましたが、20代前半の当時は理不尽さでお酒を楽しむどころの話ではなくなっていました。
然れど、「これが社会人か」と無理やり言い聞かせて感情を沈めていたことも事実でした。
思えばこの頃から。
社会の慣習に、飲み会という行事に違和感と不快感を抱き始めてのかもしれません。
心を病んで、飲み会から離れたことで感じたこと
それから暫くし、首都圏勤務となった私は心を壊し、精神を病みました。
会社って、何だっけ。人付き合いって、何だっけ。自分って、ナンダッケ?
抗うつ薬や精神安定剤が欠かせない身体と成り果てても、それでも業務に支障を来してはならないという思いだけを頼りに、病休も取らず魂が抜けた傀儡同然の身体と精神で会社へ務め続けました。
それだけなら、まだ何とか自分を保つことができました。うつ病と診断されようが、それが露呈するような場面を作らないようにして。追い詰められそうになったら適当な理由を付けて、私が最も苦手とする言い争いの場から去ることが可能だったからです。
とは言いながら、全てそんな行動理念だけで収まらない場面もありました。
最たる例が、飲み会です。
当時は今ほど精神に関する病気が浸透していなかったこと。それ以上に若者は飲み会に率先して参加するという、古く悪い慣習が蔓延っている時代でもありました。
自分のことでさえ手に負えない程精神を壊していた私は、断り一人休むことを第一優先していました。自分はうつ病なんです、などと言えない空気もありましたが、とにかく人と関わりたくない一心でいました。
ところが、参加を断る言葉を伝えた途端。
「何で、出られないの?忘年会なんだから、出席しないなんてあり得ないけど?」
不機嫌そうに眉をひそめる先輩の言葉に、私は思わず「何いってんだこいつ」とばかりに汚物を見るかのように睨みつけていたことを覚えています。
会社の付き合いなのに、自分を犠牲にしてまで参加しろ?対して付き合いもないだけでなく、病気のフォローもしない人たちと酒盃を交わすことは当然のこと?
何言ってんだお前。バブル期の慣習の化石か?
糞食らえ、時代錯誤のバカ共が。
思わず手が出そうになりましたが、そこは社会の場。手を出した方が負けだということは勿論ながら、そのような根拠も理由もなくただ慣例に前倣えしかできない人の相手をすることが、唐突に馬鹿馬鹿しくなった瞬間でした。
この時は最初に務めた地元で退職する方々の送別会が重なっていました。
首都圏内での忘年会よりも地元を大切にしたいという、ある意味無茶苦茶でありながら本心を伝えたところ、渋々了解してもらった経緯があります。
参加表の備考欄に、嫌味の如く「地元の大切な人を優先の為欠席」と書かれましたが。
私からすれば、どうでもいいことでした。
寧ろ。
その程度の書き込みで付き合いを回避できるのであれば、幾らでも言い訳してやる。
これ以上、自分を犠牲にしてまで会社に付き合う義理もない。
何より。
大勢の人が集まる場所が、耳から入る会話の嵐がただでさえ苦手で耐えられないことを、いつの間にか自覚している自分がいました。
図らずとも、このことを堺に自分が人ととはどこかズレていることを。後にHSP、HSS型HSPであることを知る切っ掛けとなったのです。
大勢も騒がしさも苦手なHSPには、飲み会は苦しいだけの害悪
それから間もなく、私は地元に戻ることとなりました。
相も変わらず、先輩方は飲み会の機会を設け「交流を深める」という名目の慣習を続けていました。
少人数ならともかく、何十人もいるような宴会はただ気疲れするだけで得るものは何もないことを知った私は、逆の発想を抱くようになっていました。
大勢が参加する飲み会なら、対して面白い話もせずお酌もしない私なんていなくても……構わないよな。
その頃からか私は、図らずとも人から評価されたり評価されることを怖がらなくなっていました。飲み会にも参加しないことを酷評しない人たちがいなくなったことは、私にとって幸いなことではありました。
始めこそアルコール禁忌の薬を飲んでいることを理由に飲み会を断り、その度に罪悪感のようなものを抱いていました。
しかし歳を取ると共に、自分をより深く知ることで。
自分がHSPであることを最初に知り。人付き合いそのものが苦手と認識し、自分を蔑ろにしてまで付き合う必要はないと考え始めて。
その後より複雑で理解されない、HSS型HSPであることを自覚してからは、より一層興味のないことにはとことん関心を抱かないことを知って。同時に親しい人たちとの交流は、喩え少人数であっても楽しいと感じ、大切にしたいと思う傾向にある自分がいることに気付くことができました。
お酒の場であろうがなかろうが、私は大人数で騒ぐよりも一対一を好むことを。多くても4人以下でないと「私なんていなくても構わないから、好きに楽しんで」と思うようになりました。
それからは私が大切と思いたい人との付き合いはより大事にしたいと思う一方で、「白兎は飲み会に出ない」と思われる程大人数での飲み会を遠慮なく断るようになりました。
気疲れだけの付き合い、辞めにしませんか
私の考えを、自分勝手や身勝手だと思う方もいらっしゃるかと思います。
開き直るつもりはありません、と最初に申し上げます。
それならそれで、私は構いません。
今回は飲み会をテーマとしましたが、何事も「好きな人はやれば良い」というのが、私の考えでありスタンスです。
飲み会で憂さ晴らしする。それはとても大事なことだと思っていることは事実です。
但し。
それに当てはまらない人間も、少なからずいるという前提を設けて。
私はHSS型HSPを自負した上で、言い方は悪くなりますが「大して親しくない人たち」との懇親を深めたいという気は更々ありません。
それで嫌われたり煙たがれるのなら、そこまでの縁だったと受け入れて、関係を切る覚悟はあります。
然れど。
そこまで割り切った考えに至ることができず、悶々とした日々を送っていらっしゃる方も多いと勝手ながら思っています。
難しいかとは思いますが。
自分を削って、身体や精神を犠牲にするような付き合いを続ける位なら。
そんなもの、辞めませんか。
私の経験上、その程度の付き合いで交流が深まった試しはありません。寧ろ相手ばかりが楽しむばかりで、自分にとって利益らしい利益は何も得られませんでした。
利益というといかにもな感じもしますので、言い方を変えさせていただきます。
飲み会だけでに留まらず、その付き合いは互いにWin-Winでしょうか。
どちらかが何かしらの我慢を強いられてはいませんでしょうか。
付き合う上で、ご自身に対し何かプラスになることはありますでしょうか。
そうでなければ、気疲れだけで何も生み出さない付き合いは、私は辞めても良いと思います。
その場では良いとしても。
後々自分を壊して取り返しが付かなくなる可能性は、否定できません。
かく言う私が、その一人です。人との繋がりを重視し自分を無視し続けたことで、自ら死を選ぶまでに追い込まれた一人です。
そんなことになる前に。
相手をヨイショするだけの。詰まらない慣習の残滓として残り続ける飲み会なんて。
もう、辞めにしませんか。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
締めはもう一人のアバター(和装Ver)を使わせていただきました。
【車・趣味】今年最後の大旅行 ~伊豆大島上陸、そして帰路へ~
関越道で数十時間に及ぶ立ち往生。各地で大雪。そして12月とは思えない冷え込み。
今シーズンの冬は、これまでのそれとどこか違う何かを感じさせます。
自宅付近でも氷点下二桁を記録し、会社に行くことはおろか、布団から這い出るのがやっとの思いだった【やさぐれ紳士】白兎です。
皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。
ジェットフォイルが奏でる音響を背景音としながら、伊豆大島へと渡った私たち。
そこは天然の城壁とも呼べる断崖絶壁と、潮の香りが漂う、どこか懐かしささえ感じさせる町並みが広がっているのでした。
今回は初となる伊豆大島に上陸し、短いながらも離島で過ごした時間。日常生活では、山国では味わえない海の町ならではの空気と時の流れを綴りながら。
今年最後の大旅行を、締めて参ります。
切り立つ大地と風が生み出した、海風と共に生きる伊豆大島
ジェットフォイルを降り、伊豆大島の地を踏んだ私たちを待っていたのは、沢山の観光客。そして、切り立った大地と風が生み出した伊豆大島の絶景でした。
自然が創り上げた、まさに難攻不落と言っても過言ではない程の断崖絶壁。緑に囲まれ和らいでいるとはいえ、来るものを拒むかのように聳える岩肌。この島に住む方々や自由に飛び回れる海鳥以外は受け付けない、厳かな空気が吹き付ける風と共に伝わってきました。
反対側を見渡すと、そこには海が広がるばかり。遠くに本州が見えるとは言え、山に囲まれた地に生まれ育った私には絶海の孤島にすら思えるような情景でした。
遅めのお昼を摂る為に歩き出した私たち。品川ナンバーの車が行き交うこの地が、伊豆の名を持ちながらも東京都の一部であることが、何とも不思議な感覚を齎します。
微かに雨粒が降り注ぐ町並みは、古き良き時代を表現しているかのようでした。潮風に晒され傷んだコンクリート製の家屋、錆びついたトタンの屋根。その随所に植えられた木々や花々が昔と今を繋いでいるかのようにさえ見え、発展した都市部にはない温もりを伝えてくれました。
時間の制約もあり、徒歩で移動できた距離は僅かでした。それでも、喩え一部であっても伊豆大島の町をこの目で見て、肌で感じることができました。
少し困ったのは、ここは漁業が盛んな町だったこと。魚介類が食べられない私には、名物の魚介をふんだんに使用した料理を出してくれるお店ばかりで、少々難儀しました。
結果、港近くの5F建てビルにして船客待合所の中にある「minatoにぎわいテーブル」で食事を摂ることになりました。
船の発着場の屋上で、海風と共に伊豆大島の空気に触れながら
2019年にオープニングセレモニーが執り行われた船客待合所は、津波の避難所にもなる広いスペースを有したゆったりとした建物です。地上の1階部分は船のチケット売り場兼待合所。2階はお土産売り場で3階がレストラン、4階部分が津波避難スペースにして展望エリアとなっていました。5階は関係者以外立入禁止区域です。
静岡県の伊豆半島から一時間足らずで東京都に立っているのが、新鮮な雰囲気を齎してくれます。
名所も沢山あり、余裕があればレンタカーを借りて、島を一周したいと思いながら、遅めの昼食を頬張ります。この日はご飯が食べたかったので、炒飯を注文しました。
旅行に行ったならその地の名物を食べてきたかと、よく聞かれます。(主に会社で)
毎度のこと私の答えはNoなので、大概「勿体ないな」「上手いもん喰わないなんて、人生損してるぞ」と言われます。
正直、私にとってそれはどうでもいいことです。
私が旅をするのは、行ったことのない場所の空気や景色に触れることの新鮮さと喜び。再び訪れた際には懐かしさを抱きながら、前回訪れた時との差異を -気温や気候など- を肌身で感じ、目で、音で、匂いで感じる為であることが主です。
旅の楽しみ方は、人それぞれ。極端な言い方をすれば、自分が満足できる楽しみ方をできればそれで良いのです。
話は逸れましたが、食事を終えた私たちは、帰りの船を待つ時間を使い観光客が立ち入れる最上階の展望エリアへと足を運んでいました。
海鳥たちの鳴き声が木霊するその場所に出て、私たちは写真撮影と会話に華を咲かせました。
コロナ禍でなければ、恐らく展望エリアも人だかりができていたであろうその場所を、ほぼ独占していました。
私とたーぼぅさんの会話が、静かに交わされます。
コロナ禍のこと、仕事のこと。互いの健康のことや、趣味のこと。
そして今年は、これで最後の旅行になること。
それが、なんとなく漠然としながらも、どこか寂しい気持ちになりつつある私の思いを吐露していました。
湿っぽいのは苦手な私ではありますが、そんな私に、たーぼぅさんは傾聴してくださいました。
それが、どれだけありがたくて。頼もしくて、嬉しいことだったか。
私には血の繋がった兄がおりますが。
血は繋がっていないとしても、もう一人の兄として慕いたい。この人に甘えたい。
もっと、傍にいたい。
そんな軟弱で、甘ったれた思いすら込み上げていました。
それはともかく、思いを言葉にできなかったことを悔いる一方で。
無理に捻り出す必要もないのかな、などと思う自分がいました。
展望エリアの端にある手すりに肘を付き身体を預けながら、そやって思い感じている自分の気持ちは、何物にも変えられない真実であり事実であることが、わかったのだから。
伊豆大島を離れるまでの時間は、あまりにも短くて
カメラのシャッターを切ることに、会話に夢中になっている間にも、早くも帰りの便にして熱海行き最終便の船に乗り込む時間が迫ってきました。
たーぼぅさんの声を聞き、海辺へと目を向けると。
帰りに搭乗するジェットフォイルが、荒れる波を掻き分けて「翼走」してきました。よく見ると、先端にある翼と呼ばれる部分が立ち上がって海面を飛ぶかのように船体を浮かせています。
船が行き去った後方の水面が白く波立ち、ジェットフォイルの翼走により「切り裂かれた」とも呼べる跡のようにも見えます。
港に近付くに連れて。
翼部分が格納され、通常の船と同じ姿へと様変わりしていました。
乗船中は見ることができない、ジェットフォイルの変形とも呼べる機構を捉えることができ、「変形は浪漫」と思いながら。海上を時速80キロで進む為に熟考され洗練された技術を前に感嘆の声を出すことしかできませんでした。
伊豆大島を離れる時間がやってきました。滞在時間はたったの数時間でしたが、本州から離れた東京都であるこの地の空気に触れて、また一つ知らぬ場所をこの身を持って踏み込めたことと。
その帰りの船内で、ジェットフォイルが吼えながらも奏でる音色を背景に、すっかり値落ちしてしまいながらも。
もう一度、今度は時間に余裕を持ってゆっくり回りたい。そんな決意のようなものを、夢現で思いながら。
大旅行の終わりは、青空と共に
眠気眼で起きた私が状況把握した時には、船が熱海港に着岸手前のところでした。
凝り固まった身体をほぐそうと伸びている内に、ジェットフォイルは無事着岸。今回の船旅の終わりを告げました。
港を後にした私たちは軽い夕食を摂り、談話を重ねました。
話は、いつまでも尽きませんでした。
しかしながら、(私は船内で寝ていながらも)双方ともに疲労を隠せなかったことに加えて、翌日のことを考慮し早めに解散することといたしました。
車をメインにする旅としては最長となる、3箇所目のホテルまで送ってくださったたーぼぅさんに感謝の言葉と頭を深く下げながら、私たちは別れました。
来年こそ、コロナ禍が解消され自由に旅を満喫できることを。さらなる旅路を共にできることを、胸の中で静かに願いながら。
宿泊地に着いてすぐ、倒れるように寝入った私の意識が現実に帰ったのは、翌朝でした。
ホテルでの朝食を堪能し、私は8時前に相棒と共に伊豆の地を後にし出立していました。どこか後ろ髪を引かれるような思いに駆られたのは、きっと気の所為ではないと思いながら。
その道中、燃料補給しつつ休息の為に立ち寄ったコンビニから。
晴れ渡る富士山の勇姿と青空を拝むことができました。
その後は休憩を挟むことなく、地元長野まで愛車と共に駆け抜けていきました。3連休明けの道は空き、愛車を駆る喜びを噛み締めながら。
長野に入る頃には、伊豆の地より10℃近く冷えた空気が、私と相棒を待ち受けているのでした。
三泊四日の旅。
まだ20代前半で体力のある頃は、京都を五泊し名所を巡ることもありましたが、今の相棒と共に旅するようになってからは初めてとなる大旅行となりました。
新型コロナウイルスが蔓延し、満足に外出もできずに終わりそうだった2020年。車のオフ会や伊豆大島への渡航という、私としては大旅行と呼べる程の旅を経ることで鬱屈を覆しました。
同時に、数年前は人に会うことさえ嫌っていた私が。
この記事を綴る今では、寧ろ人に会い話をしたいとさえ思えるようになった自分が不思議に思うと共に。
車に会えたことで。恩人と思える人に、仲間と思える人たちに出会えたことが、私の生き方そのものを変えてくれたのだとしみじみ感じています。
過去にどれだけ深く、抉られるような傷を負っても。
人は変わることができるということを、この身体と精神で、思い切り感じています。
来年は、マスクなしで。思い切り笑い合える出会いと交流を、切に願いながら。
今回の旅でお付き合いくださった、たーぼぅさん始め。車仲間に、初めてお会いした方々に、この場を借りて深く御礼申し上げます。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
【車・趣味】今年最後の大旅行 ~十月桜と二度目のジェットフォイル~
本日、今シーズン初となる氷点下二桁を観測しました。
私の住む地域から程近い菅平高原は、-20℃という想像もできないまでに冷え込む一日となりました。
日本国内において、最低気温を記録する野辺山高原、菅平高原、開田高原。
極寒地の三本指だけでなく、氷点下を連日叩き出してくる長野県ではありましたが。
近年気象異常により然程寒くならなくなったところから、いきなり襲い来るようになった今シーズンの冬。超極暖ヒートテックで内部から、こたつ・ガスストーブ・電気毛布の三種の神器で外側からもヌクヌク温まっている【やさぐれ紳士】白兎です。
皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。
イヌたちと戯れるホテルで朝までぐっすり休むことができた私は、この日もブログ友であるたーぼぅさんにお世話になりながら、大旅行の続きを歩み始めるのでした。
今回は伊豆の名所を回りながら、人生二度目となる船旅を経て。
私が旅してきた中で二つ目となる離島、伊豆大島を巡った今年最後の旅を綴って参ります。
穏やかな伊豆に咲く、十月桜
目覚ましを前に目が覚めた私は、大きく伸びながらゆっくりと息を吐きました。
前日の疲れだけでなく、日頃積もりに積もったストレスや疲労が、一夜にして一気に溶けたような心地良い朝。多少の眠気は残っていたので、カーテンを一気に広げます。
眩むような陽光。全身を包むように温めるように、焦がすような陽の光が降り注いでいました。
宿のオーナーさんが喫煙を許可してくださったベランダに出て、紫煙を吐きながら眼下に広がる風景を見下ろすと。
昨日の曇り空や雨は、どこへやら。温もりに満ちた太陽と、それを反射する海。冬を目前にしても、南国の空気は私には暖かすぎる程でした。
海から流れてくる潮風も太陽の光も、小鳥の囀りも。
この季節では銀世界に覆われることもある山国生まれの私には、何もかもが心地好いものばかりでした。
チェックアウトギリギリまでのんびりと部屋で過ごし、宿を後にする時はオーナーさんの丁寧な挨拶と見送りまで受けながら、愛車へと乗り込みます。
甲斐犬たちと触れ合える、まるで家のような安心感と緩やかな雰囲気が漂う、今回お世話になったホテル。
次は、先代犬の跡を継ぐ新しいゴールデンレトリバーの子が来ることを願いながら、また利用したいと思うのでした。
さて、いよいよ旅の再開です。予め待ち合わせをしていた場所にて、たーぼぅと合流。立てていただいた計画に沿って、私たちは移動を開始します。
まず訪れたのは、大室山の麓に位置する桜公園。
標高580mと私の住む地元よりも低いながらも、海抜0から数キロで600m近く駆け上がることを考えると。伊豆が如何に起伏の激しい場所であるか、想像するのは容易いことを思い知らされます。
11月最後の三連休ということもあり、山頂へと向かうロープウェイは長蛇の列が出来上がっていましt。数年前とは言え、一度登った大室山ではなく向かった桜公園には。
4月と10月、年に二度咲く十月桜が儚くも可憐な花を咲かせていました。
中心は濃く、花弁は淡い桃色の桜。
寒さが覆いつつある伊豆半島の空気にも負けることなく、必死に、しかし立派な花びらを広げ咲き誇る桜たち。
数年前に、同じ伊豆の地で撮影会を行った河津桜とは色合いや勢いは控えめですが、同じ桜の仲間。
この桜公園では様々な種の桜が植えられ、ほぼ一年を通し桜を楽しむことができます。今回はこの時期に咲く十月桜の周囲を回って終わりましたが、一周するとなると小一時間は掛かる程度の広さのある、穏やかでゆっくりとした時間が流れる場でした。
が、私たちは次なる場所を目指し足早にその場を去ります。次に訪れた際は、もう少しゆっくりと歩きたいという思いを残しながら。
次に訪れたのは、お酒の販売店でした。
煙草の自販機やコカコーラの意匠を背にするベンチ。幼少期の頃を思い出させるような趣きの酒屋さんです。
数十年前、今は亡き祖父と共に出かけた際に立ち寄った自販機で、「?」のラベルが貼られた、ランダムで飲み物が出てくるものがありました。
当時の私は……5歳位だったかな。
祖父からお金を貰ってワクワクしながらボタンを押して出てきたのが。
ブラックコーヒー。
子ども心ながら飲めないものが出てきたガッカリ感を滲ませながら、泣く泣く祖父に缶コーヒーをぶっきらぼうにあげた。それを喜ぶ祖父の笑顔。
そんなほろ苦い……否。ただただ苦い思い出ですら蘇ったことはさて置いて。
こちらの酒屋さん、どうやらアニメにも登場する聖地となっているようです。
お店に入るや否や、所狭しと並んだそのアニメ関連のグッズ。この酒屋さんが登場する一面を切り取った、何枚もの画像写真が目に飛び込んできました。
……本当に、酒屋さん?と思いながら、私はお土産に名物の日本酒や焼酎、地ビールを買い漁り始めます。
他方でご一緒いただいたたーぼぅさんは、お店に勤める方が同級生とのことで、女将さんやオーナーさんと談笑していらっしゃいました。
たーぼぅさんとは、車を通して知り合って。オフ会だけでなく、個人レベルで車を走らせ楽しむプチオフに何度もご一緒させていただきました。私の中では知り合いを通り越し、今は友と認め合う、嬉しさと喜びを噛み締められる仲になったと思っています。
然れど。
地元で、昔からの付き合いや繋がりがあるだけで話が弾む姿を見た私は。
会計を済ませながら、少し嫉妬すると同時に。過去に、特に学生時代の。
かつて「友だち」と呼べる人間を全て切り、捨て去った私には。
自ら進んで捨ててきた癖に、交友関係を全て失った私には最早存在しない繋がりを垣間見たことで。
たーぼぅさんの持つ、対人能力の高さと人望のようなものが、何だか羨ましくなって。
私は、人として冷たくドライであることを再自覚するのでした。
この時はそんな詰まらない思いを飲み込んで、微笑を浮かべてやり過ごす狡猾な手段で乗り切りながら、心の中で溜め息を吐く自分がいました。
さて。そんなしみったれた、根腐りした思いは捨てて。
今この瞬間を楽しもうと、自分を叱咤した私は、友と共に次なる場所へと向かうことになりました。
が、しかし。
時間という制約が、私たちを容赦なく追い詰めていることに気付くのには、少し遅かったようです。
起動する音が心地好ささえ感じさせる、ジェットフォイル
というのも、前もって打ち合わせていた計画に支障を来す事態に遭遇しかけていました。
それは、伊豆という名が付けられながら住所は東京という不思議な離島である、伊豆大島。
その地に向かう為にジェットフォイルを予約してくださったのですが、出港地が熱海。三連休の最終日ということも重なり、下道は絶賛渋滞の嵐。車で行こうにも迂回路が存在せず、渋滞に特攻することは目に見えていました。
かと言って、電車ではギリギリ間に合うかどうかの瀬戸際。
悩む時間さえ惜しい中、私たちは電車で移動しつつ熱海の一つ手前の駅で降り、タクシーで熱海港を目指すのが最短と判断。
まさに時間との勝負といっても誇張ではない、ハラハラドキドキの時間でした。
結果的に、辛うじて拾えたタクシーの運転手の方(このご時世珍しい、マニュアル車を駆っていました)がベテランかつ地元を熟知していらっしゃり、最短ルートで送ってくださった甲斐もあり。
事前予約した出向便の出立30分前に熱海港に辿り着くことが出来ました。
予想以上に早く港へ降り立つことができた私たちは、乗り込む船を撮影する時間にも恵まれることとなりました。
群青色と白に塗装された、ジェットフォイル。熱海港は船乗り場近くでも緩いということもあり、比較的近場から船を撮ることができました。
こちらのジェットフォイル、たーぼぅさんの話によると先代が引退したことを契機に新造された機体であり、既存のジェットフォイルの中でも静粛性を始め洗練されているとのことでした。
しかしながら山国生まれにして山国育ちの私には船という存在そのものが新鮮であり、パッと見真新しく塗装されたように見える紺色が心を掴んで離すことはありませんでした。
出向時間が近付き。
海鳥たちが群がる、初島行きの旅客船を見送って。
いよいよ、私たちが乗り込むジェットフォイルの出立時間となりました。
たーぼぅさんの勧めで、愛機カメラである「PENTAX K-70」の録画モードを初めて使用し、ジェットフォイルの起動音から出向までを撮影しました。
同時に本ブログでは初となる、その一部を動画として上げさせていただきます。
船とは言え、航空機である旅客機と同格のガスタービンエンジンを搭載した本機の音は凄まじいものがあります。
ご視聴の際は音量を調整の上、ご覧ください。
動画冒頭に声が混じっていますが、これは昂ぶる感情を抑え切れなくなった私の声です。
単なる爆音でない、耳だけでなく、胸の奥を、心の奥底から震わせるような至高のエンジン音。
前回の佐渡ヶ島に向かう行きのジェットフォイルは、言い訳がましいかもしれませんが。
大勢の人々と前席に座す方が連れる小型犬のわめきが気になって聞き入ることは叶いませんでした。
今回は人も少なく、かつエンジンに近い座席を取ってくださったたーぼぅさんの粋な図らいにより、快音を堪能することができました。
人によっては単なる雑音とも、煩い音と思う方もいらっしゃるかと思います。
片や私は、HSPの、特に聴覚が敏感なこともあってか。
唐突の爆音ではなく、段階を経ながら最大出力まで唸り、吼えると例えられるその音は。
私には快音であり、気分と感情を高揚させるものでした。
これだけでなく、例えば新幹線や地下鉄のモーター音。車のエンジンが発する音や、排気音。
無機質ながらも、どうやら私はそういった音に惹かれ、心奪われることが多いことに気付かされました。
もしかしたら、ある種の音フェチなのかも……?
それはともかく。
最大時速84キロという、海上でありながら高速道路を走る車と同等以上の速度を叩き出しながら。
伊豆半島の遠目に、駆け抜けるようにして。
まだ見ぬ地、伊豆大島へと乗り込むのでした。
今回はここまでとさせていただきます。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
P.S
音フェチ、というものについて、興味深い文献を見つけ出しました。機会を見て、また記事にしたいと思います。
【車・趣味】今年最後の大旅行 ~犬好きオーナー夫妻のペンション~
長野県内では、各所で積雪が観測されました。
特に日本海側に近い長野市や飯山市は一日中雪が降り、世界をすっかり銀世界へと変貌させることとなりました。
本日も一日中白い結晶が降り降りました。そう言いながら、積雪よりも明日明朝の道路が凍結していないかが気掛かりで仕方がない【やさぐれ紳士】白兎です。
皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。
数多くのクルマたちと、オーナーたる方々と出会い、お話しし、笑顔を零しながら再会を誓ったオフ会を終えました。
思わぬ形で富士山の麓が齎す寒さで体力を奪われた私は、この日身体を休める宿を目指し愛車と共に駆け下りていきました。
辿り着いたそこで、心を癒やしてくれる思わぬ存在と邂逅するのでした。
ホテルというよりも、ペンションという呼び方が正しいその宿泊施設を運営するオーナーさんは、物静かながらも温かみのあるご夫婦でした。
通された部屋は一軒家の一室を思わせるファミリールームで、一人占めするにはとても勿体ない程。しかしながら、ビジネスホテルのようなキチッと清掃された無機質感は皆無で、海辺に向かう窓を開放すれば潮風が吹き抜ける空間が広がっていました。
部屋一杯の温もり。思えば会社絡みの出張でも個人旅行でもビジネスホテルばかりだった私には、初めてとも言える雰囲気でした。
そしてこのホテルではオーナーご夫妻が何頭も保護犬を引き取り育ててきたと仰っていました。
ホテルの紹介ページには看板犬であるゴールデンレトリバーが載っており、穏やかな表情で宿泊者をもてなしていた、そうなのですが。
病気を患い、オーナーご夫妻に優しく看取られながら天国へと旅立ったそうです。
フロントに飾られたゴールデンレトリバーの子の写真を見た瞬間、何となくではありましたが。
虹の橋を渡ってしまったのだろうか、と薄々感じていました。
それだけで感情移入した私は思わず声を震わせましたが、命あるもの、必ず終わりはある。
一日で様々な思いと感情を受け取った私は、少し疲れていました。気を紛らわせようと部屋でブログを書いていると、何やら室外から賑やかな声が聞こえてきます。
持ち込んだお酒が切れてしまったことも重なったので、思い切って部屋の扉を開けると、そこには。
御年18歳となる甲斐犬のお父さんと、その息子兄妹たちが、別の宿泊者カップルと見られる方たちと戯れていました。
動物アレルギーを持つ方を気遣い、普段はフロントから出さないようにしているとのことでしたが、問題がなければ宿泊する人たちと会わせ遊ばせているとのことでした。
イヌ科の動物に目がない私は、図らずもその空気にご一緒させていただきました。
オーナーさんにバンザイさせられるこちらの子は、毛の色が虎のように綺麗な模様が特徴な男の子です。三毛猫のように褐色と黒の毛が並ぶ甲斐犬は「虎毛犬」とも呼ばれ、珍しいと共に希少とのことでした。
性格はオーナーさんの元へ行ったかと思えば私を含めた宿泊者たちの元に来たりと忙しなく動き回る、わんぱくという言葉が相応しい元気な子です。
オーナーさんにはデレデレのようで、されるがままの姿が可愛らしい。
一方で褐色の毛並みに身を包んだこちらの子は女の子で、快活な兄(弟?)とは対照的に落ち着きがあり堂々とした振る舞いを見せていました。
一時間近くだったかと思います。
ロビーを走り回る甲斐犬の兄妹と共に、オーナーご夫妻と宿泊するカップルの方々とイヌについて語り、触れ合っていました。
以前の記事で、動物を見るのは好きでも触るのはビビリで中々触れることができなかった私も。
褐色の甲斐犬(妹)が、私の足元で佇んだ際、思わずその身体を抱き締めていました。
狩猟犬として、基本的に主にしか懐かない勇敢な甲斐犬。
その毛並みを、怖くて震えそうになる手で、優しく撫でると。
嫌がる素振りも見せず、私の手を受け入れてくれました。
イヌならではのゴワゴワとした強い毛並みの中から溢れる、温かさ。
昼間の寒さが嘘のように感じられる程の、温もり。
十二分に堪能させてもらったと思った瞬間、今度は兄妹でじゃれ合い始めました。その姿はロビーを、私たち宿泊者をホッコリとさせるには十分過ぎる程でした。
現代社会において、己の地位や利権ばかりを気にして行動する御仁が多い中。
この甲斐犬の兄妹を含めて、イヌたちはどうしてこんなにも自由でありながら。
人を癒やしてくれるのだろう。
イヌたちに対する思いを語ってくださったオーナーご夫妻、そして甲斐犬たちとの触れ合いを存分に楽しみ、忘れかけていたアルコール飲料の補充の為に自販機に立ったその時。
私の両足の合間から、茶トラ柄の兄甲斐犬君が頭をすっぽり埋めて顔を出しておりました。
「ナニナニ、何かくれるの??」と言わんばかりに、目を輝かせながら。
理性が飛びそうになる寸前でした。もう、あれです。シチュエーションが最高。
「ダメだよ?これ、お酒だから」
自販機から取り出したビール缶を手にする私を、尚見上げ尻尾を振って表情を緩ませる甲斐犬兄君。
……そんな表情なんか見せられたら、本当に何かあげたくなるじゃないか。
然れど、人間でも度が過ぎれば毒なものは毒に変わりはなく。
「……ダメ、あげられないんだ。ごめんね」
思わず顔が綻んでしまった私を尻目に、何も貰えないことを悟った甲斐犬君はしょんぼりしながらフロント奥へと帰っていくのでした。
これまで私は、ホテルは身体を休めるだけの場所。人と触れ合うこと必要性などないと信じて生きてきました。
それが一瞬にして、見知らぬ人と接することも悪くないとさえ思える夜となりました。
予想もしない出来事に出くわしながら、イヌという動物が生んでくれた人との繋がり。
この日は寝床に付くまで、綻んだ顔を元に戻すことができないまま、疲れを感じながらも心を温められた私は眠りに就くのでした。
明くる日も、これまでの旅行の中でも大旅行となる時間は続きます。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
【車・趣味】今年最後の大旅行 ~沢山の車たちに囲まれて、その2~
いよいよ寒さが本格的になって参りました。愛車が毎朝凍りつくようになって久しいながら、ついに路面にブラックアイスバーンが発生するようになってきております。
各地で車の事故が相次いでいるということもあり、年末年始の忙しさに惑わされることなく自分の地盤を固めて安全を心がけようと思う【やさぐれ紳士】白兎です。
皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。
今年最後となる大旅行の序章にして最大のイベントとなった、車のオフ会。
前回に引き続き、今回も綴って参ります。
久方振りの再会を喜びながら、車について語り合う時間
約一年振りとなる再会を、喜びと同時に「このような世の中になり、すっかりご無沙汰となって」と悔いるような思いを吐露しながら、私は車を通して知り合い仲間となった方を中心に話を続けていきました。
皆から「師匠」と慕われる方のアクセラです。前回の記事で紹介させていただいたアクセラがモデルチェンジし、「アクセラ」の名を冠せられる最後の型となった車種です。
こちらは私の相棒と同じディーゼルエンジンを搭載している車種ですが、2200ccという排気量と「ツインシーケンシャルターボ」という大小二つのターボを載せています。
かつて同車種に同乗させていただいた時の、離陸する航空機を彷彿させる加速力とトルクの強さを堪能した時には、言葉も出ない程の有り余る力強さに感動さえ覚えました。
そしてこちらの「師匠」は私が初めて車のSNSに登録した際、真っ先にオフ会のお誘いをいただいた方でもあります。当時は人間不信甚だしく禄な人付き合いもできずにいた私は頑なに断ってしまいましたが、今ではお会いする度に即興漫才をするかのように会話をする程、仲良くさせていただいています。
私が、自ら大勢が集まるオフ会に参加するようになって。その一日が嘘のようにあっという間に過ぎ去る時間を共にできる喜びと高揚感を得られるようになったのは、自分で言うのも難ではありますが奇跡と好機に恵まれた結果だと自負しています。
人との出会いの場を蹴り飛ばして拒否していた数年前の自分を、今は少し恥じらい情けなかったと思いながら。
そんな私を受け入れてくださった方々には、ありがとうという一言では片付けられない思いが沢山詰まっています。それでも「世の中は敵だらけ」と信じて止まなかった私を救ってくださった皆さんには、今も心の底から感謝しております。
そんな中で師匠がボケた所を、透かさずツッコミを入れ、そこにボケを被せてくる師匠とのやり取りの合間は、堅苦しい思いすら忘れさせてくれる時間です。
お次は。
今のMAZDAが一押しする、赤のボディカラーのアクセラセダン。独自にパーツを取り付けながら正統派を崩さない、洗練された弄りが素敵な一台です。
曇り空とPENTAXのHDRを用いることで、カメラでは色飛びし易い赤も満足のいく映え方を捉えることができました。
このアクセラを駆る方も、私が初めて参加したオフ会で知り合って以降仲良くさせていただいております。物静かでありながら淡々と話を進める姿は、感情に囚われがちな私には見習いたいとさえ思う方です。
それでいながら隙きあらばカメラ片手に奔走する姿を見せることもあり、単独行動大好きな私は感化されてイベントそっちのけでご一緒させていただいたこともあります。
愛車の色と同じ熱い思いを抱きながら、自分の意志を貫き通す姿。お話していて楽しいながら、憧れすら抱くお方です。
ちなみに本オフ会では師匠相手に私と共にツッコミにツッコんで、私含めて笑い耽っていました。
まだまだ続きます。
今は無きロータリーエンジンを積んだ、RX-8。
十数年前、入社して幾ばくもない私。当時は車のくの字も知らず興味も抱いていなかった中、緊急の設備修理の最中乗せてくださった先輩が駆っていた車のことが、今も忘れられません。
RX-7。
90年代を風靡し、かの有名なガンダムの形式番号にさえ影響を与えたと言われる名機。
仕事場へ向かう途中、車のことやロータリーエンジンについて熱く語ってくれた先輩を前に、何も知らず興味も示さなかった当時の私は「はぁ……」と相槌を打つことしかできませんでした。
時を経て。
車を好きになり、ある程度ではあれど。
昔乗せて貰った車と同じロータリーエンジンを動力とする車を愛車とするこちたの方とは、数年前のオフ会でお会いし仲良くさせていただいております。
響き渡るロータリーエンジン特有の音響は、音に敏感な一方で拠り所にしている私には快音であり、心を、精神を震わせ高ぶらせてくれます。
会話を主としながらも盛り上がり、高止まりを知らない勢いのオフ会。
しかし、天候は反比例するかのように、陽光を遮り会場を深い霧で覆い尽くしていくのでした。
初めてお会いする方々も、車を趣味にしていることに変わりなく仲良くなって
視界数十メートルという白い世界に包まれ、冷たい風が容赦なく叩きつけるようになって参りました。
寒さには厚着で対応する、長野生まれにして育った私も、手がかじかみ体温と体力を徐々に。しかし確実に奪われていきました。
それでも、オフ会の終了まで粘ることを選んでいました。
参加を表明した当初こそ、途中で離脱することを念頭にしておりました。
然れど一度浸ったオフ会の雰囲気は、易々と帰ることを躊躇う程になっていました。
その中で、これまで顔は拝見しながらもお話ししたことがなかった方も。
完全に初見ながらもお話しすることで、交流を深められた方もいらっしゃいました。
カメラを握る手すら満足に動かせず、話すことを切っ掛けに仲良くなる第一歩を踏み出せた方が多い中、その愛車を収められなかったことを悔い、申し訳なかったと思いながら。
前回の記事で語らせていただいた、マツダスピードアクセラ。オーナーたるご本人は目立つ弄りもせず面白みのない車と仰っていました。
しかしながら。
弄るとしても車本来が持つ見た目を残しながら、を矜持とする私としては、外見を大きく崩す弄り方よりも共感できるものがありました。
何よりも。
オフ会では自己紹介と愛車を示す一枚紙を用意するのが多い中で、ご自身のHNを懇親の一品で表したその姿に盛大に笑いながらも、センスの素晴らしさに圧倒されました。
そして、もう一台。
HDRの度が過ぎてしまい、油絵のようになってしまいましたが……。
ファミリア、アクセラの名を継ぎ、新たに「MAZDA3」として生まれ変わった、白のMAZDA3。今回のオフ会はアクセラが圧倒的多数を占める中、唯一無二の一台として鎮座しておりました。
私も試乗を通して、アクセラから進化した技術と車体自体の素晴らしさを実感しながらも。一人のオーナーさんが駆る一台として間近に見るのは、これが初めてのことでした。
これまで車のSNSで発言こそ拝見しながら、声の一つも掛けられなかった私でした。しかしいざ対面しお話しさせていただきとても気さくながらも芯の通った方でした。
初対面を極度に恐れ避ける傾向が強い私にも、優しい声を掛けてくださいました。それでいながら「師匠」とのやりとりを眼前で披露され、笑いを堪えることは叶いませんでした。
来年こそ気兼ねなく車仲間が集まれることを願いながら
これまでお会いした方も、初めてお会いした方とも、車という共通の趣味を通しながらも楽しく過ごす時間。
刹那、と言っては過言になるかもしれません。然れどいつの間にか、閉会の時間となっていました。
2020年。新型コロナウイルスという脅威を前に様々な制約を余儀なくされた一年でした。
そのような逆境の中、開催してくださった主催者の方を始め、スタッフを務めてくださった方々に感謝の意を表し。
否、それ以上に。
国が、政府が、政府でさえ。まともな対策を打とうともせず根性論と精神論を押し付けて辟易する中。
楽しい時間と場を用意し提供してくださった皆さんに、この場を借りて心から御礼を申し上げます。
そして。
世間に疎い私を誘ってくださり、このオフ会を共にし楽しませていただいた盟友へ。
この上ない謝意と、歳の差はあれど仲良くさせていただいていることに。
言葉では言い表せない思いを抱きつつ、それでも純粋に「有難う」と申し上げます。
もう一人。
無機質に、「一台」と言いたくない程になった相棒に。
2020年を締め括るオフ会を開催してくださった全ての方々に、参加された方々に。
心より、御礼申し上げます。
これにてオフ会は終わることとなりました。
然れど今年の、これまで愛車と共に過ごしてきた中でも最大の大旅行となる旅は、まだ始まったばかりでした。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
【車・趣味】今年最後の大旅行 ~沢山の車たちに囲まれて、その1~
冬将軍の到来が予報され、いよいよ以て寒さが堪える日々が始まりました。
日陰になる場所はブラックアイスバーン特有の反射を見せ始め、朝夕の車での移動に一層の注意が必要となって参りました。
それ以上に、朝の暖かなお布団から出ることが早くも困難になり始めて「あと二時間位はじっとしていたい……」と思うようになっている【やさぐれ紳士】白兎です。
皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。
寒さが厳しくなる直前となる、11月の終わり。
今年最初として最後となる、車のオフ会に参加して参りました。
コロナ禍で開催さえ危ぶまれ、次々と中止となる中……。
富士山の麓にある水ヶ塚公園にて開催された、「富士山山嶺」の駐車場で開催されることとなったオフ会。
然れどこのオフ会は、これまでのそれとは参加募集や趣旨が異なる、新しいものとなりました。
今回は今年最後となる大旅行となった、第一日目。富士山の麓で行われた車のオフ会に参加させていただき、新型コロナによってすっかりご無沙汰となってしまった方々に出会えた喜びと嬉しさ。
それと共に、以前とは違う募集方式によって新たな出会いを果たすことができ、人と接する新たな機会を得られたことを、綴って参ります。
初となる、Twitter主体による車を趣味とする人々の集い
それは、あまりにも唐突のことでした。
普段より仲良くさせていただいている友から、「Twitterでオフ会を計画しているけど、どうする?」と言われたのは。
Twitter。私のような人間は事ある毎に発言できるような人間ではなく、経験したことを積みに積んで文章にしていく分類の人間でした。
それとは真逆に位置する、今この瞬間を短い言葉で発信するTwitterは、登録こそしていたもののROM専(投稿を見るだけで、自分から発言をしない人のこと)を貫いていました。
そんな中、元々車のSNSを通して知り合った方々もTwitterで積極的に活動しているという話を聞きました。
対して私が大きく変わることができたきっかけとなった車のSNSは、残念ながら改悪を重ねた結果、過疎化が進んでおります。
言い方は悪くなることは承知の上ですが、変動する情報の流れに付いていこうとしない運営の考えが滲み出てしまった結果と言い換えることもできます。
然れど、失礼ながらも私から言わせていただくのなら。
内気で外に出ようともしなかった私を変えてくれる切っ掛けとなったSNSが過疎ってしまうことは、残念に思うとともに虚しささえ感じてしまいます。
それは兎も角、これまで半ば蔑ろにしてきたTwitterでオフ会の開催をされていることを知った私は友に依頼し、参加させて欲しい旨を伝えました。
一ヶ月ほど経った頃でしょうか。
その日が、遂に訪れることとなりました。
今までとは異なる、Twitterを元にした車のオフ会。大きな不安と好奇心を抱えながら、会場に向かうのでした。
富士山の麓に集まった車たちに囲まれて
オフ会を前に、私は開催前日に現地近くまで移動し前泊することにしました。ちょうど休日出勤しなければならない日程と上手く重なったことで、混雑する時間帯を避けて気持ち良くドライブすることができました。
オフ会前日は、雲ひとつない秋空の元、愛車と共に目的地までまっしぐら。その途中。
※ドライブレコーダーから動画から切り取った一枚です※
長野から山梨に入った直後、目の前には堂々と鎮座する富士山の勇姿が広がっていました。
これまで何度も富士山を拝める場所を走って参りましたが、この日程綺麗で雄々しい姿を見ることはありませんでした。
更に、富士の魅力を見せ付けられることとなりました。
ドラレコの配置の都合上余計なものが入り込んでしまっていますが、山頂付近に積もった雪でさえくっきりと見ることができました。
雄大で日本の象徴の一つとも呼べる富士山。それを間近で、曇りのない空の下で拝めたことで、私の心は躍動し続けました。普段なら雲が掛かった富士を見て「やっぱりでかいな、富士山は」程度の言葉を零すことしかありませんでした。
しかしこの日は、ハンドルを握りながら、私は出す言葉を失っていました。惚けるように、目の前の山に見入っていました。(運転中そんなことをしたら危ないので、実際はチラチラと視線を移す程度でした)
オフ会当日も、晴れ渡った富士の麓での交流を楽しみにしておりました。
然れど、自然は酷なものです。
その日を迎えた、会場となる水ヶ塚公園駐車場は雲と霧に覆われることとなりました。富士山の山頂はおろか、麓も見えるか怪しい気候となりました。
ですが、企画から当日の運営まで司ってくださった主催者の方、誘導含め会場を纏めてくださった方々のお力の元、オフ会は開催されました。
ここからは、参加された方々の愛車の写真を列挙して参ります。
まずは主催してくださった方の愛車です。
これまで本ブログで度々紹介させていただいている我が相棒とは形も見た目も別物に思う方もいらっしゃるかもしれません。しかしながら、この車もアクセラです。
少しだけ補足させていただくと、MAZDAという車メーカーが大衆車として世に繰り出した「ファミリア」という車がありました。今は亡き私の祖父も、ファミリアに乗っていた時期があったそうです。
その後継機として発表され、名前を変えて売り出されたものが「アクセラ」です。
今は更に名前が変わり「MAZDA3」として販売されていますが、未だにアクセラの名を冠せられた車たちは元気に走り続けています。
その中で、主催者さんが今も愛しているこの車種は(前期や後期といったマイナーチェンジを除いて)二世代前の型です。加えて今では半ば普遍化しつつあるダウンサイジングターボエンジンという考えを覆す、2300cc+ターボというモンスターマシンと呼ぶこともできる「マツダ スピードアクセラ」という代物です。下手なアクセルワークをしようものならホイールスピンを起こすという馬力は、MAZDAを知る者なら伝説とも名車とも言える車です。
主催者さんの愛車は、それだけで留まりません。何が凄いかと言うと、車の九割近くをラッピングという手法を用いて自分色に染め上げている職人技にあります。
写真ではシルバーに見えてしまいますが、実際は車体の局面や部位に合わせて精巧に組み合わされたラッピングシートが綺麗に貼られ、元だったボディカラーすらわからなくなる程です。
プロ顔負けの技術の結晶、その持ち主でいらっしゃる今回のオフ会の主催者さんとは、私が初めて車のオフ会に参加してからの顔なじみとして仲良くさせていただいております。
お次はこちらの方の愛車。
別会社の車もお持ちながら、同じ型のアクセラを駆る二刀流の方の愛車です。こちらの方も初めてのオフ会で知り合いとなってから、何かとお世話になっております。
外見はアフターパーツを用いず原型を保っていらっしゃる愛車は、飾り気なくシンプルでありながら美しさを両立するスタイル。主催者と同じ型の車でありながら、両極端に位置する。それでも、双方ともに華麗さを際立たせています。
続きまして……と言って、「ん?」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。
はい、レクサス「NX300」です。
こちらの方もかつては同じマツダスピードアクセラを駆り、現在はレクサスも所有していらっしゃいます。初めてお会いしたのは、宮城にあるSUGOサーキットでサーキットランと伝説のレーシングカー「MAZDA 787B」の走行会の機会を作ってくださった頃からのお付き合いです。
アクセラという車種がメインと謳われつつも、どんな車で来てもウェルカムなオフ会となった今回を象徴する一台でした。
まだまだ続きますが、本記事は一旦区切らせていただきます。参加された方々の紹介は、次の記事でも綴って参ります。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
【HSP・生き方】理解を求めるより、自分らしさを ~理解される努力よりも、自分を大切にする努力を~
学生の頃や社会人になりたての頃は、一年という時間が物凄く長く感じて仕方ありませんでした。
一年どころか、一週間が、一日があまりにも退屈で、変わりない毎日に嫌気が差していました。
それが三十路を過ぎた頃からか。一日や一週間が過ぎ去るのが遅いと思うことはあれど、時間が過ぎ去るのがとてつもなく早く感じるようになっています。
今年も、その一つ。気が付けば極月です。あと一ヶ月足らずで2020年も終わってしまいます。
時間が早く過ぎ去ってほしいと小さい頃から願い、早く歳を取りたいという年齢不相応な考えを持ち続けた私には、今がちょうどいい塩梅な時期なのだろうなと煙草を吹かしている【やさぐれ紳士】白兎です。
皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。
コロナ禍で始まり、コロナ禍で終わりを迎えようとしている今年は。
大勢の方がコロナウィルスの害を被り、亡くなった事実を受け止めながら、お見舞いとご冥福をお祈りすると共に。
良い意味でも悪い意味でも、私たちヒトが生きる意味を考えさせられ、多様な生き方が見直される一年になったかと思います。
これまでの私生活に始まり、会社や学校、人との触れ合い方が次々と考え直される中で。私は、個人の生き方や考え方も尊重され重視されるような時間となったと考えています。
ことさら、生き辛さや息苦しさを感じて一日を送るのがやっとだ、というHSPの気質を持つ方。それだけでなく、HSSや双方を含むHSS型HSP、そしてHSSとは思えずとも外交的なHSPの方まで。
或いはそうでなくても、恒常的に人との繋がりを求めたくない人にとっても、人と物理的に距離を置くことができることを実感できる一年になったのではないかと思っています。
そんな私たちは、周りから理解を得られることはまずないと考えています。
目に見えない、心の持ちよう。それが病気でないのだから、尚更「人付き合いが悪い」「絡みづらい」と思われても不思議ではないからです。
それが、コロナウィルスの蔓延によってテレワークや外出自粛という名目で人と離れる機会ができたことで、自分という人間を見詰め直す機会に巡り会えた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
今回は、その当事者の一人であるHSS型HSPを自認する私が改めて人と接することを見つめ返したことで。
最後は、自分を理解できるのは自分しかいないことを再認識したことと。
それを他人に理解を求めても、何も始まらないことと。理解されることよりも自分らしさを大切にしたいと思ったことを、過去とこの一年で私が感じ思ったことを交えながら、綴って参ります。
- 息苦しさや生き辛さ。それをわかってあげられるのは、自分だけ
- 自分のことさえわからないのに、人に理解を求めても
- 皆が皆、同じ感覚や思考で生きている訳ではない
- 理解を求めるよりも、まずは自分らしさを大切にすること
息苦しさや生き辛さ。それをわかってあげられるのは、自分だけ
人と会うだけで疲れてしまう。
様々な場所から齎される情報が多すぎて、頭が一杯一杯になって他のことを考える余裕がなくなった。
ニュースや報道を見ていると、何だか自分のことのように思えて苦しい。
周りの人と、自分は何かが違う気がして嫌気が差した。疲れて苦しくて、幻滅した。
ネットやその他情報源が指し示す、HSPの兆候や心境を簡単に列挙しました。
その中で、ご自身が幾つ当てはまるか?……と質問形式で提示され、答えによってHSPか否かを診断するのが一般的な手法であると思います。
私としては、間違った方法ではないと思っています。
敵を知り、己を知ればという故事成語があるように、まずは自分がどんなことを思っているのか、どんなことに気が向いて仕方がないのかを知ることが、第一歩であると考えている為です。
が、しかしと付けさせていただきます。
この世の中に生きる中で、何となく息苦しさや生き辛さを感じて。その原因を知りたくて検索すれば、そのような診断サイトやアドバイスサイトにたどり着くことが容易になっています。
逆に言えばこの手の診断は、飽く迄普遍的で統計的情報を元に作られた質問群です。万人向けかもしれませんが、事細かに自分を知るという目的には向いてはいません。
人間は性格から考え方、価値観まで、それこそ星の数を数えるのと同意程の違いや差があります。
言い方は悪くなりますが、それをたかがネットの診断程度で「俺ってやっぱり変わっているんだ」「私はHSPやなんだ!」と判断するのは早計な気がしてなりません。
指標として使う分には、私も同意できます。寧ろ否定どころか賛同できることと思います。生きることに違和感を覚え、自分を知ろうとする切っ掛けを創ることは難しいと共に、それを実行できる人は少ないと思うと共に尊いことだと私は信じています。
然れど、それで満足して終わって足を止めてしまってはダメな気がしてなりません。
そのような診断をして、質問内容に少なからず「ん?これは違うかも?」や「何を聞きたいのか、ちょっとわかんないな」と思うことがあると思います。
決め付けにするつもりは毛頭ありませんが、生き辛さや息苦しさを何とかしたいと思い、進んで行った方は、必ず引っかかることが生じると思っています。
私もHSS型HSPを自負していますが、始めは体の良い診断結果に満足した結果、長年違和感を抱き続けることとなった経緯があると共に。
診断だけではわからないことは、自分の中に眠っていることに気付かされた現実がある為です。
統計などではわからない生きることの辛さや息をすることさえ苦しい思い。それは決して機械が判断できるものではありません。
全ては、そう思い感じた方の胸中に、奥底に眠るようにして根付いているものだと思うのです。
自分のことさえわからないのに、人に理解を求めても
本記事はHSPに特化させ綴っておりますが、そうでなくても、自分のことを完全に理解して生きている方はほとんど皆無と言っていいと、私は考えています。
知識や学力といったものである程度は取り繕うこともできますが、人間という生き物は、最後は自分自身が内包する思いや考え方に帰着すると思います。
何だか、生きていて窮屈な気がする。人と一緒にいても楽しめない、もしくは最初は楽しくても別れと同時に疲労が押し寄せる。周囲の空気が何となく気持ち悪くなって、その場から一刻も早く出たくなる。
これは「自分でもよくわからないけど、何となくそんな気分になる」と言い換えることができると思います。
では逆に。
そんな心境に陥った時や日々思っていることを、他人に説明しろと言われれば、どうなるでしょうか。
とても難しいことだと思います。
仮に話をしたところで、「気のせい」「思い込みすぎ」「それ、言い訳?」と言われる未来が見えてしまいます。
何故なら、言葉や理屈では説明がつかない思いの塊であると同時に。科学的根拠や医学的に説明ができるようなものではないからです。
もう少し踏み込むと、自分でも明瞭でないモヤモヤとした感情や思いが纏わりついているだけで必死なのに。
他人に説明できる余裕など、どこにあると言えるのでしょうか。
喩え訴えることができたとしても、真の理解は得られないと私は思えてなりません。
という私も、散々そのような思いに刈られ、人を忌避して避ける日々を送ってきた過去があります。
自分のことも、己が抱えている思いも感情も理解できないまま、魂がすっかり抜けた状態で20代を費やしたと言っても過言ではない程です。
それでも、他人が、周りが齎す怒りや悲しみといった感情が勝手に入り込んでくることが、苦しくて。避ける為なら、どんな方法をも用いてきました。
自分に関する質問ははぐらかしたり無視して。会社に付き物の飲み会でも人の話を聞くことに専念していました。
そこはHSPの特徴である、傾聴し共感すること。そして元来聴覚に敏感だったこともあり、然程苦痛に思うことはありませんでした。
でも、今思えば。面白くもない話を聞いている時間が、とてつもなく無駄で詰まらないと思って仕方がありませんでした。
他方で、自分でもよくわからない、自分自身という人間を知ってほしいと訴えようと喉元まで出かかって、最後は飲み込むという葛藤を味わい続けてもいました。
結局、言い出せないまま悶々とした日々を過ごし、それを他人のせいにして不貞腐れた生き方をしてきた気がします。
私という存在を理解されたいという気持ちと、他人に絶望し諦めている思い。
相反する思いは最終的に解決どころか、一層人を疑うこととなり果てていました。そして、人との溝を埋められない程にまで、自ら広げていました。
他の誰でもない、私自身の手で。幾度も裏切り裏切られて穢れ切った、この手で。
皆が皆、同じ感覚や思考で生きている訳ではない
人との違いを感じ、自ら離れるような態度を取り始めてどれ程の時が経った頃か。
相変わらず周りとの付き合いを拒み、淡々と仕事をこなしては定時で上がる。仕事をする面白みも何も感じない日々を送っていました。
そんな私のような性根が腐った人間にも、唯一心を開ける相手がいました。入社し初めての配属となった場所で、新入社員時代の苦楽を共にした同期の存在でした。
彼は何を言われても、催促されようとも、ひたすら自分のペースを守る人でした。仕事の配分だけでなく、休憩のタイミング、挙げ句には食事に行こうとする時間帯も絶対に曲げない人間です。
せっかちな私は食堂が混む前に行こうと仕事を急いで片付けても、彼は自らの生きるテンポを決して変えようとしませんでした。早く行こうと言っても、「まだ早い」「ちょっと、人がいなくなった時を見計らって」と諭す程でした。
でも、休憩に入った途端に和気あいあいとスマホでストレスを溶かす日々を一緒に過ごしていました。私とは全く違うのに、何だか歩調が不思議と合っている、そんな印象を抱き続けていました。
ある時、何となくではありますが、私は気付いたような気がしました。
この同期といる時は、気を安らげるのは確か。しかし、私の主張を簡単に受け入れるような人ではない。寧ろ自分というものをしっかり持ち、それに基づいて生きている。かと言って、彼自身の考えを押し付けようというつもりはありませんでした。
なら、私も「押し付けがましく理解を求める」よりも、「自分が思った通りに、貫いて生きてみてもいいのかな」って。
そう。これまでもそうだった。私は周りに求めるだけ求めて、返そうともしないまま生きてきてしまいました。
私にも非はあり、罪も多くあります。
然れど、結局は自分という存在を出しきれなかったことに尽き、これまでの私の全てと言っても過言ではない生き方でした。
そんな生き方、もう辞めにしよう。
人に求めることを、理解される為に自分を売るような生き様なんて。
理解を求めるよりも、まずは自分らしさを大切にすること
そう思ってから、守るべき礼儀は自分なりに押さえながら。親しき仲にも礼儀あり、という矜持は守りながら。
私はプライベートでも仕事でも、上下関係を気にして生きることを辞めました。
立場が上だから、何?偉いから、何?周りがヨイショするような相手が、何?
そのような思いが、私の行動理念になって久しくあります。それによって咎められても離れられても、あまり傷付くことはなくなりました。
孤独の最中にあったイジメ時代、周囲の視線に怯えながら辛うじて命を繋いでいた自分が嘘のように。自分で言うのも難ですが、私は変わることができたと思っています。
自分よりも人に存在意義を求めることは、ある意味簡単でありながら依存し易いです。私はその傾向が強かったこともありますが、その状態から抜け出すことは勇気と覚悟が必要になります。
共感性が高く感受性が強いHSPは、自分という存在自体が他人と違うと認識しがちかと私は思っています。故に人に認めて欲しい、助けて欲しいと縋ってしまう可能性が高いと考えています。
でも。
現実はそんなに優しくありません。これは経験的にも自信を持って言えます。
ならば媚びを売るようにして理解を求めるよりも、自分という存在を。自分らしさに耳を傾けて大切にすることが、尊いと共に大事なことだと思います。
今もし、貴方が生き辛さや息苦しさを感じているのなら。
それは、周りが齎したものでしょうか。恐らく、違うと思います。
その思いも、気持ちも、感情も。全ては貴方自身が抱えているものです。他ならぬ、貴方の内からの言葉であり、叫びです。
それを否定する必要は、私はないと思います。逆に受け入れろ、とも言えません。
まずは、言葉にならない自分の思いを、大切に抱きしめてみては如何でしょうか。そこから、変わることは多いと思います。
そういった思いの数々を、自分らしさと思えるようになるには、時間がかかるかもしれません。
ですが、向き合い続ければ変われるはずです。
人に裏切られて裏切ってを繰り返した、私のような屑の人間でさえ、そうすることで生き様そのものを変えることができたのだから。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
【車・趣味】初雪と洗車、雪を被った浅間山 ~冬晴れの空の下~
何かと忙しい、師走。旧暦の読み方の中で唯一「○○月」と付かない12月を不思議と思っておりましたが、「極月(ごくげつ、ごくづき)」という別名があることをつい最近知った【やさぐれ紳士】白兎です。
皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。
本日私の住む地域でも、初雪が降りました。
すっかり冷え切った部屋の温度に身体がついていかず、温かく柔らかなお布団から出るのも一苦労という具合で目を冷ましてカーテンを開けると、そこは白の世界が広がっていました。
日の光が強くすぐに溶けてしまいましたが、いよいよ本格的な冬の訪れを肌身で感じる朝となりました。
寒い朝だから、もう少し部屋に閉じこもって二度寝したい。
一度起き上がってスマホでニュースやその他通知を確認を一通り行った私は、再び布団に戻りウトウト……。冬の二度寝って、どうしてこんなに心地良いのでしょうか。
夢と現実を行き来していた、その時でした。
普段は出掛けない兄が「出掛けよう」と言って準備を始めたという母の声を聞き、私の意識は一気に覚醒しました。
十数分で準備を終えた私は煙草を吹かしながら母と兄が出発準備ができるのを待ち。数本吸い終えたところで出立することとなりました。
兄の車で出かける空は、雲ひとつない冬空の快晴。太陽の眩しさが、肌を焦がし目を刺激します。
特別な目的を設けずに出た、車での、細やかな休日。未だに他人を、大勢の人混みで寄ってしまう兄も朗らかに笑い。後部座席に座った母の身体が、以前より小さく感じながら、私たちはただ道を走っていきます。
他人の介在がない、安らかな一時。人の感情や思いの変化に敏感な私も、すっかりリラックスしているのでした。
お昼ごはんを終え、食材の買い物を終えた私たちは早々に帰路に就きました。
すっかり外界に嫌気が差した兄には長時間の外出は発散よりも負担となり、今でもすぐに草臥れてしまうと言います。
うつ病を悪化させたことの弊害であることは、わかっていました。
今はまだ書くことはできませんが、兄に降り下りた前職の社長、同棲先での人間関係。
全てが、楽観的で快活に見えた兄を変えてしまいました。
兎も角。
家に着いた私たちは、買い連ねた品々を車から降ろしていきます。今回はUNIQLOで超極暖ヒートテックを始め、よれてしまったフリースを新潮しました。締めて1万一千円也。
今年の寒さはまだまだですが、時には氷点下二桁にまで下がる私の住む地域。
寒さは重ね着で耐える私には、どれも命を繋ぐものばかりです(少し誇張表現ではありますが……)。
そんな中、荷持を降ろしながら、家の駐車場に鎮座する愛車が目に止まりました。
雪を被り、溶けて埃を纏ったかのように汚れてしまった相棒。
前回リコールと抱合せで洗車していただいたのが、約一ヶ月前のこと。間に一度洗車を挟みましたが、青空駐車故、汚れるのは仕方ないことであることも事実です。
しかし。汚れた相棒を見た私の意志はすでに固まっていました。
やらねば。洗車して愛車をリフレッシュさせたい。
迸る思いと共に、荷降ろしを身内に任せて私は相棒と共に飛び出していました。
コロナ禍に見舞われた、この一年。その中を共に駆け抜けてくれた愛車であり、相棒を、綺麗にしたい。
情動に突き動かされ、陽光が傾き始めた午後。日差しの暑さが残る中、洗車とコーティングを行って参りました。
洗車機を潜らせ、汚れが落ちた愛車と向き合いながら。
残った水気を拭い、その後二回に渡りコーティング剤を塗り重ね、終わることにはすっかり汗だくになっていました。
午前中のお出かけも合わさり、眠気も出始めていました。
が、折角だから相棒と共にドライブしながら写真を取りたいという欲に刈られ、私は愛車を走らせていました。
何かを思った瞬間は、その後訪れることはない。思い出して後悔してからでは遅過ぎる。
何度もその思いを味わった私は、ただ感じるままに愛車と共に駆け抜けていました。
コーティングしたボディに反射する太陽が、いつもより眩しいな、などと思っている内に。
車と自然を同時に収められる場所を、偶然見つけるに至りました。
そこは普段通らずとも、時々会社帰りに通る道。噂では速度超過した車を取り締まる為に警察が張っている、少し開けた地。
そこは、地元の御山である浅間山が一望できる場所でした。
新興住宅地が増え、新築されたアパートや一軒家が気になりましたが。
この時は相棒と、生まれてずっと眺めてきた浅間山を同時に収められることに、興奮と嬉しさに満ち溢れるままに、夢中でシャッターを切っていました。
いつもと趣向を変え、車の向きを横にしつつ少し遠目から。
ポツリと浮かんだ雲も、活火山として今も生き続けている浅間山から吹き出す噴煙も。
凛と澄み渡った青空に映え、相棒も陽光を受けて輝いていました。
これから来るであろう冬を前にしながら。
思えば、地元で真剣に映える写真を撮りたいと思ったのは、これが初めてのことでした。
見慣れた風景。いつもなら何気に目の端に移りながら、気にも止めずにここまで来ました。
然れど、冬晴れの空の下に佇む浅間山も、空も、雲も。
これまで見過ごしてきたのはどうしてだったんだと思うほどに、全てが昔のまま、美しくて。
そんな言葉で語れないことはわかっているつもりでも、それ以外の言葉が出てくることはありませんでした。
以前なら、そんな発想力がない自分を貶していましたが。
感じるものを、ただありのままに感じるのも、ありなのかもな。
無理に言葉にしなくても、飾らなくても、思い浮かんだものにひたすら浸ることも、悪いことじゃないな。
口では上手く説明できないことを、昔から自負していた私には、文章が全てと自覚する時期もありました。
でも、思いを言葉にできない時はできなくても、良いと思えるようになりました。
取り繕うようにした言葉は、真の思いとかけ離れることが多いこと。
何より。
思いを言葉にして終わらせるよりも、いつまでもこの胸に残り続ける、言葉にできないもの。
たまにはそういったものに浸るのも良いと思えるようになった心と共に、今も私は身を委ねている感覚でこの記事を綴っています。
新型コロナウイルスのことは、どうかひとまず置いておかせてください。
今年も事故なく、幾度も雨の予報を覆してくれた相棒「Lupus」に、綺麗でツルツルになったボディを撫でながら「ありがとう」と言いながら。
年の瀬迫るこの日に、曇りなき澄んだ景色を齎してくれた自然に感謝しつつ、改めて帰路に就くのでした。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
ありがとう、Lupus。これからも、よろしくね。
【HSP・価値観】一匹狼 ~負け犬?ぼっち?単に、群れたくないだけです~
前代未聞の事態に始まり、もう師走に入りましたね。終え本格的な冬は、もう目の前まで来ています。
東京五輪があれだけ騒がれたのが、嘘のように。多くのイベントに、観光に、人に。数え切れない程の影響を齎した新型コロナウイルス。
2020年という切りの良い年は、私たちが忘れていた何かを思い出せと戒めるような、そんな一年で終わると勝手に想像している【やさぐれ紳士】白兎です。
皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。
今年最後の旅を終え、久方振りに身体を休めることに専念することができました。眠気の余りに22時前に床に就き、睡眠時間は10時間以上というこれまでにない眠りについてばかりでした。
週末に至っては食事や買い物といった時以外は寝床に就いたままゴロゴロと、ただ過ぎゆく時間をゆっくり堪能する、ぐうたらとも時に身を任せるとも呼べる時間を過ごしておりました。
夢か現か。
そんな朧気な意識の中、先日投稿したHSPの記事のことを思い返していました。
誰とも接しない時間。雪が降りそうな空のもと、電気毛布とファンヒーターが部屋を温めて。起動したPCからは、お気に入りの動画をラジオ感覚で流しながら、ひたすら虚ろ虚ろとする時間。
部屋に一人寝入る、私。そこは、誰もいない空間。
どこまでも無機質で、私にとって果てしなく快適な時が流れる場所です。
人によっては、人の声すらしない空気を「寂しい」と思う方もいらっしゃるかもしれません。
でもそれって、人それぞれだよな、と妙に反発する自分がいました。
人に迷惑を掛けないのであれば、独りでいようが大勢といようが、その人の勝手だよね、と思いながら。
人は独りでは生きられない、と良く聞く中で。
せめて自分の意志がある時位は、独りで生きる時間が周りよりも多くても四の五の言われるようなことではないと、思うのでした。
今宵も独り、部屋で酒を嗜みながら。自分の時間を、私という人間と向き合うことを楽しみながら、今回も綴って参ります。
集団から敢えて離れて、独りでいることを好む者。集団の中にいることを良しとせず単独行動を取る人間を比喩する言葉、一匹狼。
憧れとさえ思うようになった、そんな生き方を考えながら。
媚を売って集団に「飼われる」ような接し方しかできなかった人間が、勝手に疲れて、勝手にやさぐれて。
人と接することもできないまで疲弊したことで見出して、群れることを嫌って独りでいることを好むようになった生き様を、記事にしていきます。
- 群れることでしか自分を守れなかった一方で、ストレスは感じ続けていた
- 真の孤独を味わってから、怖いものは薄れていって
- 一匹狼、という言葉を知って
- 負け犬とも、ぼっちと思われても構わない。単に、群れたくないだけ
群れることでしか自分を守れなかった一方で、ストレスは感じ続けていた
今の義務教育がどのような方針でいるのかはわかりませんが、私が小さい頃は「皆、仲良く」と先生に言われ続けて育ちました。
『友達百人できるかな』という歌がある通り、同級生となった周りと喧嘩することなく、仲良く友達を作りましょう。そのような文化があり、雰囲気もそれに準じた空気が流れていました。
確かにその通り、誰とも仲良く出来て楽しく過ごせることは大切なことだと思います。
多少のすれ違いはあったとしても、いざこざなどなく、偶然の出会いをいつまでも大切にしながら。
末永く友人としてあり続けることは、子どもを見る「大人たち」から見れば願いであったでしょうし、大きな問題を起こさないことを切に願ってのことだったと思います。
然れど、私は違和感ばかり覚えてばかりでした。
幼心ながらも、性格も考え方も違う周りに、男女の差に、同調することに疑問ばかり抱いていました。
楽しくなかったか、と聞かれれば、そうではありません。
ただ、何となく。同い年というだけで価値観も何もかも違う人と一緒に過ごす時間は、私はどこまでも「何か変」「何か違う気がする」という思いを抱えていました。
しかしながら、子どもは所詮子どもです。外界では肉親以外に頼れる存在は先生という絶対的なものを除けば、同級生という名の友だちしかいませんでした。
否かの小さな学校に進学した私は、特にその思いが先走って仕方ありませんでした。
一学年一クラスしかないような小さな小学校で、除け者にされることはある意味の「死」を意味することも無意識ながらも理解してしまった私は、否が応でも周りに合わせるという道を選んでいました。
自分が感じる違和よりも、自我を抑えて周りに合わせる生き方。
「何か変だ」と訴える自分を曝け出すことよりも、みんな仲良くしていることの安心さに身を委ねていました。
今思えば、それは卑怯な生き方だったと思い返しています。
この記事を綴っている今、意見も禄に言えない臆病者と私を自分で罵っています。
何故なら、表向きには笑いながら毎日を過ごしていたはずなのに。心のどこかで、私は周りとどこかズレていることを感じていながら、周囲に合わせることで誤魔化してきた事実があるからです。
もしも、この時期から多様性という言葉だけでなく。願わくばHSPやセクシャルマイノリティといった概念が広まっていたら……なんて、また周りの状況を言い訳にしている自分が、時々嫌になります。
人と。同級生と一緒にいることにさえ違和感を覚えて楽しめなかった癖に。
私は、今で言うストレスを感じながらも最後まで何も言うことも。自分の本当の思いを表に出すこともできませんでした。
本当の孤独を、この身で味わい絶望するまでは。
真の孤独を味わってから、怖いものは薄れていって
真の孤独、イジメと社会での孤立。
これについては、これまで何度も述べて参りました。
話してきた。それで慣れたはずなのに。
このことに触れる時には、精神がざわついて現実逃避の如く、心が一刻も離れようと全力で動いてしまいます。
自分では、表向きには慣れたと豪語している一方で。いざ向き合おうとすると途端に臆病になります。
ブログで訴えたくなっても、言葉が、思いが出てこない。
頭が、心が別のことを考えようと勝手に動いて、事実と向き合えずに悶々とする、そんな日々をこれまで何度も続けてきました。
でも、事実は事実。過去は、変えられない。
いい加減向き合えよ、白兎。
そう思いつつも躊躇って、気付けばブログを始めて一年弱経とうとしています。
そしてようやく、やっと本気で自分と向き合う心と時間を手にした今。
誰からも相手にされない孤独。それを三十年足らずで、私は幾度も体験してここにいます。
結果論にはなりますが、良いか悪いかは別としても。
自ら死を選ぼうとするまでに追い込まれた経験を経てからは、怖いものは一気に減ったような気がしています。
自分も、家族も。周りの人も視線も、評価も。
全てが、正直どうでも良くなっていました。
私は、私が生きたいように生きる。その中で下される言葉も、批評も、怖さを通り越して雑音のように思えるようになっていました。
会社でさえ、生きるために務めてお金を稼いでいる。逆ではない。
人に評価される為に、会社に務め社会に出ている訳ではないんだ。
そのような姿勢を見せ、貫くような仕草をすれば、離れていく人は沢山いました。
最初は、寂しさと虚しさが昔のように込み上げてばかりでした。
でも、いつしかそれで良いと思えるようになっていました。
煩わしい人間関係を断ち切れるのなら、私が恐れるものは何もない。
そんな生き様を貫くようになって、久しくある中。以前から知りながらも意味を理解できなかったある言葉が、私を救うこととなりました。
一匹狼、という言葉を知って
今ではすっかり魅了されるようになった、オオカミという生き物。
彼らは群れを作って行動しています。
しかしながら、効率的に狩りを行える群れから離れる個体がいます。
一匹のオオカミは他の動物に襲われたり満足に餌を捕らえられず餓死する危険性を孕みながらも、新しい群れを創り上げリーダーになり得る可能性も秘めています。
そのような危うさとチャンスを併せ持った状態を示すものとして、「一匹狼」という言葉が生まれたとされています。
人間はオオカミよりも遥かに弱い生き物です。群れを成し、知恵を出し合いながら獲物と対峙しながら生き永らえてきました。
そのような歴史があっても、ヒトもまた群れることを好まず一人で行動する人を「一匹狼」と表現しています。
勘違いされがちなのが、一匹狼と一人ぼっちです。
一見独りでいることに変わりはありませんが、決定的に違うことがあります。
それは本人の意志によるものか、周りに仲間外れにさせているかです。
一人ぼっちは「仲間に入りたいけど、できない。だから仕方なく独りでいる」とされています。別の視点から見れば、群れに負けて追い出された負け犬と同義とも言えます。
一方で一匹狼は「仲間なんていらない。自分で選んで独りでいる」と紹介されます。
この差異は、独りでいるという状況が「受動的か自発的か」でわけられると思います。周囲の意識や行動に左右されて「独りでいる」のか、自らの意志で敢えて「独りでいる」のか。似ているようで、大きく異なるものです。
かつて私は、周りに全てを委ねてばかりで自分の意志を示さぬままいきていました。それ故イジメや会社での孤立に繋がり、一人ぼっちという意識を長年抱え続けてきました。
裏切りと利権関係。仲間や友だちと言うには程遠い関係に疲れ果てた私は、精神科に通いカウンセラーと話すことを繰り返すことで、いつしか他人と距離を置いて独りでいることが快適で気楽に過ごしている自分がいることに気付かされました。
人の顔色を伺いながら生きるなんて、もう疲れた。そんなことをしなければ満たされない人間関係なんて、私には要らない。
それに気付いてからは、肩の荷が下りたどころか、身軽になってどこへでも行けるような好奇心とワクワクするような気持ちで一杯になるようになりました。
人の為に生きるのではない。自分の為に生きている。
そのような思いが迸るようになってから、私は随分変わったな、と振り返る程になっています。
負け犬とも、ぼっちと思われても構わない。単に、群れたくないだけ
巷では生きるも死ぬも人間関係に始まって、人間関係に終わるだとか。
仕事は業務内容よりも人間関係と言う方も大勢いらっしゃいます。
それを否定するつもりは、私もありません。現に、独りではやり過ごせない場面に出くわすことばかりですし、それが人生と言っても強ち間違いではないと思っています。
ですが。
HSPとHSSの気質を併せ持つことを自負する、私のような人間は集団生活で草臥れ果ててしまいます。
他人との関係を良好に保ち続けようとして、自分を壊したという過去があるとは言え、私はどうも独りでいる時間をこよなく愛する変わり者であるようです。
そのせいなのかはわかりませんが、会社では変わり者扱いされ人事情報でも「精神的に難しい人間」と評価されています。
それがどうした、何が悪いと冷めた目で、私は生きています。そんなことで評価されても批評されても、私にはどうでも良いことです。
もし、人間関係に悩んで独りでいることを恐れたり塞ぎ込んでしまっているような方がいらっしゃるのなら。
独りでいることは、そんなに怖いことでしょうか。仲間外れにされたり、仲間に入りたくても入れないことを理由に、自分というものを蔑ろにしてはいませんでしょうか。
一匹狼なんて言えば格好良いですが、変わり者と称されながらも生きている私のような人間もいます。
もしかしたら、一度自分を見直せば「独りでいる」ことは惨めなことでも怖いことでもないと、思い直せる機会があるかもしれません。
数は少ないかも知れません。おかしい奴だと思うかも知れません。
それでも、自分の意志で独りの道を選んで自らを見直して、やさぐれながらも生きている私のように。
裏切って裏切られてを繰り返して、死を見ても尚生き永らえている人間がいるのだから。
ただし、一つだけ。
一匹狼と自負している私ですが、自分が信頼できると思えた相手には自分を曝け出し、兎にも角にも尽くそうとする一面がある所を自覚しています。
確かに人は嫌いかもしれません。それでも、自分を「一人の人間」として見てくれる人には、特段自分ができることをしたいと思ってしまいます。
群れることは嫌いでも、人を選ぶ卑怯さはあるかもしれません。
それでも私が信じて、私を信じてくれる人は。掛け替えのない存在で、自分を犠牲にしてでも大切にしたい、そんな思いも持ち合わせています。
一匹狼は、決して感情のない人間ではないことだけは、最後にどうしても申し上げたいことであります。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
【HSS・HSP】無理して好かれる必要などない ~好かれようとしない。その勇気と覚悟~
先日、愛車以外の我が家にある全車のタイヤをスタッドレスへ換装を完了しました。
長野でも例年以上に初雪が早く観測されていること、連日氷点下を記録する寒さを鑑みて普段よりも早めのタイヤ交換を終え、車の冬支度は万全な【やさぐれ紳士】白兎です。
皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。
父親?知りません。
思慮を巡らせる暇も余裕もなかった、私が。
記憶に残らない小さい頃から、ずっとしてきて。
社会人になって、周りを気にし過ぎた余りに精神を害してしまったこと。
それは。
私は、嫌われない努力を続けてきました。
誰かに嫌われない為なら、他の誰かを裏切ることも平然に行って、十数年。
その惨めな結末を、この身を以て知ると共に。
自分を殺してまでも、媚びを売ったり群れに入ろうとしなくても。
足掻くようにして嫌われないことよりも、あるがままの自分を見せて無駄に好かれようとしなくても良いのではないかと思い至ったことを、綴って参ります。
嫌われようとしない努力や勇気ではなく。
好かれようとしない、思いや勇気の方が、一層大切であることを。
- 嫌われないこと。それは、独りになるのが怖かったから
- 嫌う、嫌われるを繰り返すことに疲れ果てて
- 好かれなくても良いと、自分自身の返事が聞こえた気がした
- 無理に好かれようとしなくても、生きていける。喩え孤独でも、孤高であれ
嫌われないこと。それは、独りになるのが怖かったから
私は元々、独りで黙々と何かに打ち込んで時間を忘れるのが好きな人間でした。
周りが身体を動かし汗を流しながら楽しげな喜び声を上げる中でも、独りで脳内で創り上がる世界に入り浸って創作を楽しんでいました。時には怪我や仮病を使ってまで、自分の世界に入り込んでいました。
別の時では、図画工作で同級生が作り終えて暇を潰す為に遊び始める所を。
私は独り、他の人の何倍も大きな作品を作る為に熱中していました。ひたすら紙を切り、絵を描き、装飾して繋ぎ合わせて。不器用でも、ひたすら夢中に。独りで楽しんでいました。
またある時は、一時流行ったカードゲームにドハマリして一気にクラス中の話題になっていました。
他方で私は独りだけ全く興味を示せず、とにかく自分の世界を、興味を惹かれるものを追い求めるかのように没頭していました。
10歳にしてゼノギアスという、ストーリーも難解でグロテスク表現や鬱展開ばかり。言い回しの難しさもあり内容はさっぱりでしたが、当時の高校生が遊ぶようなゲームに明け暮れていました。
それでも。当時の学校という閉鎖的空間は、私のような存在を容認するような空気ではありませんでした。
少しでも周りと違う意見を言えば反感を買い、除け者扱いされることばかりでした。
それに立ち向かう勇気も、周りに意志を提示するだけの力も頭も、当時の私にはなく。ただただ、周りの言うことに従うように、しかし悶々とする日々を送っていました。
やりたくもない、闘争心を剥き出して争うドッジボールも。やる意味もわからないディベートモドキも。
主張すればする程、精神的な痛みを負うことになると、半ば脅される様でした。
しかしながら、嫌々ながら賛同すれば、今度は身体も心も痛い思いをするという、とにかく理不尽な思いしかしなかった記憶ばかりです。
そうもしてまで、周りに合わせるようになったのは。
夢中になっている時は良くても、そうでない時は外の世界から齎される情報や感情に振り回されていたという、自覚という言葉に当たらずも遠からぬ思いをずっと背負ってきていたことにありました。
誰かが怒られている現場に直面すると、あたかも自分が悪いことをして責められているような錯覚に陥ること。
その訳もわからない感情の余りに、当人ではなく私が泣き出してしまったこと。
険悪な雰囲気の中で、教師を始めとして誰かが怒号を飛ばしそうな時。「お願いだから、みんな静かにして!じゃないと……」と勝手に読んでしまった空気に侵され自分を見失って。
結局誰かが騒ぎ出して、連帯責任とばかりにゲンコツを食らう。
この時はまだ、自分が外界の情報に過剰反応して気を揉んでしまう、HSPという気質を持っていることも。夢中になりだしたら止まらなくなるHSSの気質も持ち合わせていることなど知る訳もなく。
とにかく、怒られることや誰かが機嫌を損ねることを、自分のせいだと全てを勝手に背負い込んで。その思い込みがどんどん歪んでいって、最後に渡しは一つの結論に至ることとなりました。
自分が悪いことをしなければ、誰も怒らない。誰も悪い気分にはならない。良い雰囲気のまま、皆が気分良く生きていける。
自分が悪いことを、「嫌われるようなこと」をしなければ。
こんなこと、私の勝手で自己中心的な思いだったと、今は言えます。でも幼心で一度思い込んだ考えは、私に常に付き纏うようになっていきました。
嫌われなければ、誰からも怒られない。嫌われなければ、誰とでも仲良く過ごせる。
そう、嫌われなければ。
それを払拭できぬまま、私は歪曲し捻れた十数年を、自ら歩むこととなりました。
嫌う、嫌われるを繰り返すことに疲れ果てて
自分を殺して、他人に合わせる。
その言葉が当てはまるような生き方を、学生時代から社会人までずっとしてきました。
小さな同窓会があれば、業務を途中で切り止めてでも参加したり。逆に会社で飲み会があれば、友人の約束を残業があるから、と適当な理由を付けて断り飲み会に足を運んでいました。
しかしながら、状況によっては人に予定や気分を合わせられないことが増えていくこととなりました。
その度に嫌な顔をされることもありました。「彼女でもいるのか?」と冷やかされることもありました。
そして、何とか言い訳しようとも、それも次第に通じなくなって。言い訳ばかりで穴埋めもしようとしなかった私の元から、皆離れていきました。
待って。私を、置いていかないで。私を、独りにしないで。
私の場合、特に思春期にイジメを受けたということも重なり、独りになることを病的にまで恐れるようになっていました。
ですが人からすれば、そんなことなどを知ろうがいまいが、満足に自分の意見も意志も出せない人間など、一緒にいたり付き合っていたりしても面白くもないはずです。
それを嫌われることが怖い、などという稚拙な思いに縛られる私のような奴よりも、もっと個性的で周りを自然と巻き込むような、カリスマ性を備えていたり退屈しない時間を共にできる人に向かっていくことは、必然とも言えました。
そういった情景を幾度も目の当たりにしてきた私は、自分に非があると思い込んで。一方で他人の気持ちに寄り添おうともしないのに、勝手に恨みや妬みばかりを重ねて。
そんな終わりのない人間関係のやり取りに、知らぬ間に心を、精神をすり減らしていたことに気付いたのは。
頼る所を、拠り所を失った東京のど真ん中に勤務する中で。
精神を病み、如何なる人との関わりにも身体が拒絶反応を起こすようになってからなのでした。
好かれなくても良いと、自分自身の返事が聞こえた気がした
うつ病という心の病を患ってから、私は自然と人と距離を置くことを覚えていました。
その合間にも、友人も会社の人も、同期も。次々と私という廃人同然の人間から離れては消えていくのでした。
違ったのは、これまで強迫概念のように人に縋り付こうと必死に動き回って、その為なら自分など厭わないと思っていた自分が嘘のように。
他人なんて、どうでも良い。私なんて詰まらない人間なのだから、もっと一緒にいて楽しい人と一緒にいた方が良いよ。
私のことなんて、嫌ってくれ。記憶から消え去る位、嫌い尽くしてくれ。
投げやりとも自嘲とも言える思いと共に、すっかり人間関係に疲れ切っていることを知りながら、薬漬けという名の闘病生活に明け暮れる毎日を送っていました。
これが、人に裏切られ裏切り続けてきた最底辺の人間の末路か。
そのような思いに勝手に浸る中、転機が訪れました。
外の世界との接触を恐れるばかりに、引き籠もり同然の日々を送っていた私に、車のSNSを通してオフ会の招待がされたことでした。
残暑と言うには余りにも強すぎる陽光、そして暑さ。忘れもしない、常夏を思わせる横浜の地。
横浜シンボルタワーを背景とする駐車場。そこにはSNS上では交流はあったものの、顔を合わせることは初めてという人たちが大勢集まりました。
その光景を見るだけで、どうすれば良いのかわからず右往左往していた私に。
迷子になって途方に暮れる子どものような私に声をかけ、気遣うかのように声をかけてくれた人たちとの出会い。
初めて、会うのに。やり取りしたことと言えば、SNS上での短いやり取りだけだったのに。
新参者である私を迎えてくれた人たちは、眩しくて温かい笑顔と声色で満ち溢れていました。
それが、私の新たな始まりであると共に。これまで生きてきた中で抱えてきた全てを改める始まりでもありました。
その空気に入り浸るように、私は時を忘れて集まった方々との時間をひたすら楽しみました。
一方で、思い返すこともありました。
この時、「嫌われない為に、集まった全員と仲良くしよう」という思いが、どういう訳か働きませんでした。
このオフ会では、私が参加する以前から仲の良いメンバーは固まるように、楽しげに話し込んでいる人たちもいました。
以前なら羨んで、羨望の眼差ししか送ることができないまま、入り込んでいけない自分を情けなく思って。周りにも、いい歳しながら不貞腐れるような態度を振りまいていたのに。
それが、なかった。
とにかく、私を受け入れてくれた人たちとの時間を、いつまでも楽しんでいたいと願う程でした。
そう、願おうともそうでなくても、仲良くしていただける方との時間を過ごせるのなら、他に求めるものなど、私にはありませんでした。
オフ会が終わった後も、残滓というにはあまりに大きすぎるものばかりが私の中に残って、そしていつまでも忘れられなくなることとなりました。
この胸に、頭に残る温かさ。いつでも必死こいて、自分を捨ててまで求めていた温もりと穏やかさ。無理に合わせることなどしなくとも、多くの人と知り合い交流できたこと。
その後もその方々とは、特別連絡しなくともお会いすれば年の差など関係なく、にこやかさと共に話に華を咲かせることができるようになったこと。
あまりに初めて過ぎて、自分でも理解できなかった思い。でも、思い返せば思わず顔が綻んでしまう。
これって、なんだんだ。
私は人に裏切られて、裏切ってきた、どうしようもない人間なのに。
なのに、どうして。
こんなに優しくて、柔らかくて、温かいものは、何なのだろう。
そう思って数年。
ようやく、答えに巡り会えた気がしています。
無理に好かれなくても良いんだよ。
そんな言葉が、自分の中から滲み出たかのように聞こえた気がしてからは。
無理に好かれようとしなくても、生きていける。喩え孤独でも、孤高であれ
その後も車のオフ会に参加させていただきましたが、思ったことは最初のそれと全く同じであることに気付きました。
どのような形式のものであっても、年を経ても。
人に対する私の意識は、これまでと全く異なっていたこと。
寧ろ十数年悩み続けてきた思い……人に好かれなければ、嫌われてはならないと信じて生きてきたことが、嘘を通り越して馬鹿げた妄想のことのように思えることばかりでした。
そこで、私は薄々感じ始めていました。
嫌われることを恐れて自分を制する必要なんて、ないのではないか、と。
同時に、合わない人と無理に合わせることなどない。その為なら、嫌われても構わない。
そんな折でした。
はてなブログを通して、HSS型HSPを取り上げていらっしゃる「ウサキさん☆」さんのとある記事を見て、息を呑むほどの衝撃を受けました。
上手く同調できない周りに対して嫌悪し、嫌われる努力をするのではなく、「好かれようとしない」努力。
私は真逆なことをし続けて、自分自身を追い込んでは苦しめていることに、やっと気が付けたような気がしています。
人を嫌って、独りになって、一時の清々しさのようなものは得られても。
すぐに、何かが違うという錯覚に似た感情に駆られて、益々落ち込んできました。
私は、ずっと過ちを犯し続けていたのです。
嫌われて、嫌って、離れられて離れてを繰り返して。しかし、得られる結果は私が望むものとは程遠いことばかりでした。
そして今、それに気付いたことで、自分が成すべきことを。これから生きていく上で必要なことを理解できたような気がしています。
望んでも、望まなくても。人は否が応でも、生きる上で人間関係から逃れることはできません。
ことさらHSPを自負する人は、傷つきやすいと認知されています。
でも、私はその認識は少し違うのではないか、と思っています。
確かに周りの状況や空気に感化され過ぎて疲れ果てることはあります。それ以上疲れると自分が壊れるという錯覚にさえ陥ることから、外界との接触を拒絶する。そのことから傷つきやすいと見られているのではないかと考えています。
そして、最後は独りになりたいことを切願するあまりに、自ら嫌われる努力に走って、走って、走り抜いて。
気が付いた時には、ボロボロになった自分だけが残されるという結果になっている、そんな気がしてなりません。
他の誰でもない、私というHSS型HSPの一人が選び続け、何も残らない惨めな結末を見てきたからです。
然れど、本当は。
無理に外界に同調する傾向がわかっているのなら、無理に付き合おうと思ったり。自分を犠牲にしてまで合わせる必要などないと思うのです。
そしてその為には、他者目線の「嫌われる」という名目ではなく、「好かれようとしない」自分目線の考え。
そう思い始めてから、人とのやり取りが随分と楽になりました。
これはもしかしたら。HSPであっても、そうでなくても。
人間関係からに悩みを持つ方、全てに共有できる考えなのかも知れません。
他人を軸に、自分の立場を作るよりも。
自分を軸に、自分らしさと立ち位置を創る。
その方が、気楽で。より自分らしく生きられるのではないか。
唯一無二の自分という存在を、確固たるものとしていく為の考え方。
好かれようとしない努力が、まさにそれなのではと確信しながら、私は歩み始めています。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
それでは、また次回まで。
【HSP・HSS】楽しき時間は、行き行きて ~そして訪れる、寂しさと虚しさ~
世間は感染症拡大によって、混迷を極めています。
誰が悪い訳でもない。悪いのは新型コロナウイルスなのに。
まるで犯人探しをするように動き回る行政、Go toのストップ。一年足らずでこの様なら、下手すればこの先数年は人と会うことさえ悪事と指差されることになるのではないかと思えてなりません。
深く考えずとも、誰かに会いたいと思えば気軽に出掛けられた時を、つい懐かしく思えてしまう【やさぐれ紳士】白兎です。
皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。
今回の三連休に加えて一日お休みをいただき、約一年振りとなる車のオフ会に参加し。
間もなく冬に入ろうとする各地を、雪や凍結といった物理的に行けなくなってしまう前に予定を詰めに詰め込んで行って参りました。
3泊4日の旅。長期出張を除けば、これまでで一番長い遠征旅行となった今回。
詳細は写真加工を行った上で、別記事として上げさせていただきますが。
この記事を書いている今この瞬間、虚無感と寂しさで胸が詰まって何もやりたくない思いで一杯になっています。
今回の旅で、改めて自分がHSS型HSPであることを認識いたしました。
出立する寸前までは、車のオフ会に参加することが怖いと思える程、要らぬ憶測や心配ばかりが先走って億劫にさえ思っておりました。
50台もの車が一挙に集まるオフ会は、私自身あまり経験が多くありません。車のSNSを通じて仲良くさせていただいている方も何人かいらっしゃいましたが、大半は会ったこともない方々ばかり。
そんな中に、私のような奥手で独りで歩き回るような変わり者が行って、邪険にされるかもしれない。
でも、人嫌いを自負している癖に、久方振りになる方々と会いたい。
相反する思いを抱えながら長野を出発して、独りで運転する楽しさを堪能していく内に。
今度は好奇心と積極性のような思いが表立つようになっていって。
オフ会当日はそれまでの杞憂は何だったのかという程、顔見知りの方にも、始めてお会いする方にも次々と話しかけて、仲良くなって。
テンションが裏返る勢いで、思い切り人の集まりを楽しんでいる自分がいました。
一方で自分を守ろうとする思いも働き、どこかで、話しかける人を厳選している私がいるのもまた、事実でした。
天候には恵まれなかったものの無事オフ会を終えた後は伊豆の友と共に、まだ訪れぬ伊豆大島にまで足を運びました。
一連の旅を終え、帰宅した私はすっかり気が抜けて。夕飯寸前まで眠りに耽って、こうして記事を綴っています。
仕事をする一日も、旅行をする一日も、同じ24時間なのに。
何で、こんなに違うのだろう。
楽しい時間や、自分の好奇心を満たす時間はとてつもなく短く感じるのに。
終わった後は、どうして胸を締め付けられる感覚を抱く位、虚しさとも辛いとも思える感情を抱いているんだ。
あれだけ人と会うことを嫌っていた私が、自分でも制御できない思いに刈られているのは、何でなんだ。
人といる時は、何もかも忘れて笑っているのに。
どうして独りの時は、いつものように思いや感情が頭の中をグチャグチャにかき回すんだ。
もっと、生きることを。人といることを純粋に楽しめる人間でいられたら、こんな思いなど背負わないで済んだのかも知れないのに、どうして。
どうして、普段は情報と感情を恐れる位臆病なのに。時々であっても、自分でも抑えきれない衝動に支配されるんだよ、私。
HSS型HSPと言ってしまえば、簡単なことはわかってはいるつもりです。
だけど、それで済ませたくない思いが、錯綜して止まらないことが、こんなにも苦しいなんて。言葉にすらできない自分が、憎らしいし悔しいし、情けない。
私は。
知った振りをして、HSPやHSS型HSPを語っていたのかもしれないと思えてならない思いでいます。
自分のことなのに、自分がわからない。考えれば考える程、私というものがわからなくなります。
多分、こうやって一生悩んでは苦しむことになるのだろうなと、何気なく悟っています。
純粋に、単純に物事を楽しんで終わらない。その先に潜むものを、自分が感じたまま深く取り入れて落とし込んで。考えて考えて、答えが出なくても考えて。
HSPを陰の性質と言うなら、HSSという陽の性質を併せ持つことの意味を、どこまでも追求することになるのだろう。
ただ。今はそれを発信できる場が、ここにあります。
私の思ったことや感じたことを、他の誰かの役に立つのであれば、まだ救いはあると自分に言い聞かせています。
喩えお節介で終わったとしても。
今感じている虚しさを、自分なりの言葉にできるのなら。