白兎と雪狼の、果てなき旅路

ドライブやドライブや写真撮影を趣味とし、その他、HSPやAセクシャル、イジメ。精神的・心理的なことについて綴っていきます。

【人生・生きること】宵闇に似た不安 〜心折れそうに、なっても〜

 新型肺炎ウイルスの感染者が、ついに私の住む地域でも出てしまいました。

 

 これまでは「感染者、どう考えても報道の10倍以上はいるだろうな」だとか「感染拡大に乗じて転売や詐欺をする狡猾な奴もいるんだな」などと、どこか他人事のように考えていました。

 

 しかしいざ、パンデミックが目の前に差し迫った途端に。

 

 狼狽するように精神を揺さぶられて、それまで何事もなくこなしてきた仕事にさえ集中できずにミスばかり起こして。

 全てのことにやる気や活気を失いかけて、自暴自棄になるかのような気持ちで帰路につきました。

 

 いつかは起こり得るかもしれない。発症しても仕方がないなどと、中途半端な覚悟を抱いておきながら。

 目に見えない脅威が現実のものになりかけている瞬間を想像しただけで。

 一変して、どうしたら良いんだろうと狼狽えています。

 私自身が感染して発症することに、恐怖はありません。

 それよりも。

 身内や友人、そして職場の人々にウイルスを広げてしまう媒介者になりたくないという思いから。

 月明かりすらない、宵闇の中に独り立たされているような不安に刈られている、白兎です。

 

 

 皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 新型肺炎絡みの報道は、朗報など皆無な現状は、不安に満ち溢れていることと思っています。

 

 新型肺炎のみならず。

 皆さんは、不意に不安に刈られ、恐れるあまりに身動きが取れなくなるようなことはありますでしょうか。

 

 私は、日常茶飯事の如く不安を抱き、思考停止に陥りかけることだらけです。

 時には、必要以上の不安を抱えるあまりに。

 自分というものを失いかけそうになるまでに、心をへし折られかけることさえあります。

 

 

 今回は、新型肺炎の件だけでなく。

 日常で何気なく感じることもあれば、「どうしよう……」と立ち止まってしまうことさえあり得るもの。

 希望と言う名の光すら消しかねない、不安というものについて、綴っていきたいと思います。

 

 ※注記※

 本記事は、私個人が抱え、経験してきた内容を独白する内容が多くなります。

 主観的意見や思いが多数を占める為、そういったことが苦手、或いは不快と感じる方がいらっしゃいましたら、誠に勝手ながらお引き返しいただきますよう、お願いいたします。

 ※注記終了※

 

 

 

 

 

 

 

 

 新型肺炎の脅威、膨らむ不安

 新型肺炎ウイルスの発生から、2ヶ月が経とうとしている今現在でも、状況改善する様子は見られません。

 日本国内だけでも次々と感染情報が流れ続ける中、それに対して検査強化をするといった具体的な対応策が成される訳でもなく、ただ繰り返すようにに「引き続き警戒を強めていく」というお茶を濁すような言葉ばかりが目立ちます。

 また感染された方の治療状況や、感染確認されたその後については不明瞭なまま。

 そして最も感じるのは、国によっては一日数百人単位で感染者が発見されているのにも拘らず、日本だけが感染状況が不気味なまでに穏やか過ぎることです。

 

 そんな混乱と不安ばかりが広がるものしかないのに、冷静な対応を求められても無理があります。

 

 幸いなことに、トイレットペーパーやティッシュペーパーは在庫切れが続いていましたが、ようやく店頭に姿を現し始めてました。

 しかし、相変わらずマスクは入荷未定の張り紙が消えることはありません。

 

 不安も去ることながら、訝しさや憤りにも似た感情を燻ぶらせていた中で。

 

 自分が住む地域で感染者が確認された報道を受けて、私の中で一気に、不安という感情が飛び抜けることとなりました。

 

 

 

 

 

 それ以外の不安も、日頃から抱き続けてきた

 

 

 

 

 今回の騒動を受けて、一気に大きな不安を抱いた私ではありますが。

 

 それ以外の不安や恐怖、心配事。

 私は小さい頃から、常日頃抱いていました。

 

 対外的な面では。

 時間を忘れて、学校や公園で友達と呼べた人たちと遊んでいるような時でも。

 部活に勤しみ、仲間と呼べた人たちと共に切磋琢磨する中でも。

 学級会や文化祭、音楽鑑賞会といった、クラスだけでなく学校全体が盛り上がるような舞台に立ち、その前から練習に明け暮れた際でも。

 社会人として会社勤めするようになって、今に至っても。

 

 身内の中でさえ。

 恋愛結婚したことが嘘のように思える程、喧嘩を絶やさなかった祖父母。

 真逆を行くように、言葉さえ交わさず、結局今日まで家庭内別居とも呼べる立場や姿勢を崩さなかった両親。

 歳の差はあれど喧嘩した回数は片手で数えるしかない兄が、いつの間にか家からいなくなって、精神を病んで帰ってきたこと。

 そして、イジメを経緯に他人というものに十代半ばにして見切りを付け、「人生を語るなんて、夢物語さ」などと達観したように振る舞っていながら。

 それ以上に自分自身を見限って、心の奥底では、埋まらない心の隙間を埋める誰かを求めていた、私自身。

 

 

 いつまで経っても、どこまで行っても。

 私は、臆病者です。

 

 

 ブログとして記事に上げている今の私は、差異はあれど、多少なりとも客観的に自分というものを見ることができるようになりかけていますが。

 

 過去のその時々は、不安と恐怖に、ひたすら怯えるように生き永らえることが、精一杯でした。

 

 

 

 

 何度も、不安に心をへし折られてきた

 

 

 

 私は、それこそ数えることをやめてしまった程、数多の不安に心を折られかけてきました。

 

 学校でも、身内でも、そして、自分自身に対しても。

 日常的にとも言える程にまで感じていた不安を言葉にして、周りに伝えることなどできず。不安や恐怖にただ、怯えてばかりでした。

 

 

 そういった時々に、自分なりの意見や思いを伝えられることができれば、少しでも何かが変わっていたのかもしれない。

 そんな、あまりにも遅過ぎる後悔の念を、抱いて久しいです。

 

 

 私は。

 

 自分に危害や損害が出そうな問題に直面した時。

 解決しようと努力するよりも、真っ先に自分の身を守ろうとして。

 一目散に逃げることを。その場から如何に早く逃げる為に、全力を尽くそうとします。

 

 そんな、臆病で卑怯な人間です。

 

 故に然るべき、なのかもしれません。

  不安や恐怖に立ち向かおうともせずに、逃げる姿勢ばかり見せてきた私を、学生時代に真っ向から否定されて、拒絶されて。

 不安と共にへし折られた心を、それでも繋ぎ止めるかのよに。

 他人など、信用も信頼もできないという思いが、私を支配していました。

 

 社会人になっても尚。

 かつて私自身が、周りに失望され拒絶されるという不安を絶対的に避けるかのように仕事にばかり集中して、忙しさやキャパシティを遥かに超えているという自分の警告を無視し続けた結果。

 精神を蝕み、正常な判断はおろか。

 自分が生きる意味さえ見出だせなくなる、精神的な意味では「死んでいるも同然」とも言える病を患って。

 今尚精神科に通い、カウンセリングを受けるようになるに至ります。

 

 

 不安や眼の前の恐怖に対する、私の行動理念は。

 

  自分が助かりたい。

 逃げることで、安らぎを得たい。

 そう思い返せばする程、色濃くなって。

 時々、無性に自分への嫌悪が一層強くことさえあります。

    

 

 

 不安に怯える私に、親友が掛けてくれた言葉

 

 

 

 新型肺炎ウイルスが住む地域で発見されたことを目の当たりにした日。

 この時も、心が折れそうになる程の不安に刈られ、ブログにも手を出せない程になっていました。

 

 そんな時、私に掛けてくれた、親友の言葉があります。

 

 

 「風邪やインフルエンザを発症した時、熱や鼻水、痰を出す。それは、身体の持つ免疫が病原体に対して懸命に戦っている証拠。免疫は身体を守る、言わば兵士であること。

 花粉症やアレルギー反応は、免疫という兵士たちが過剰反応してしまっている。

 薬で症状を抑えることはできても、それ以上に身体へ余計な負担を掛けることや副作用が出ることの方が厄介である。

 薬やサプリメントは、飽く迄「援護部隊」であって、本当に大切なのは、自分の身体の持つ免疫力。

 病気と戦う兵士たち。免疫力を高める為に、適度で質の高い睡眠を取り、栄養のある食べ物を食べて、耐性を付けていくことが、大事ではないか」

 

 

 そう聴いた途端、私は自分が精神科医でも言い続けてきた言葉を思い出すと共に。

 それすら忘れる程の不安と恐怖に陥っていたそれまでの自分が、急に馬鹿らしくなりました。

 

 親友が掛けてくれたことで、再び思い出したこと、それは。

 

 

 現実に向き合って、必死に戦っているのは、他の誰でもない自分自身であること。

 抗うつ薬や精神安定剤は、弱ってしまった自分の精神を助けてくれる援護部隊である。

 薬に頼り切るのではなく、薬に応援して貰う。

 薬を飲むことで副作用などの不安を恐れるより、助けてくれる存在と考えれば。

 うつ病を持つ自分がを、おかしいだとか、狂ってしまっているなんて、思わなくても大丈夫。

 

 

 そんな思いから、私は今回の新型肺炎ウイルスも、考え方次第では同じなのではないか、と気づくことができました。

 

 私はまた、親友に救われて。感謝する思いを伝えると共に。

 もう一度、現実に向き合う覚悟のようなものを、抱くことができました。

 

 

 

 不安を、享受する覚悟

 

 数十年生きてきた今でも、不安というものは私に常につきまとっています。

 現実で起きているパンデミックの前に、私はまた、不安に乗っ取られかけて、押し潰されそうになりました。

 

 時には、無駄死にするように挑むようなことなどせず、逃げることも大切だと思っています。

 

 でも、いつの間にか芽生え意識し続けてきた思い。

 親友の言葉に助けられて、それを再び思い出した今。

 不安だらけの現実に、しっかりとこの目で見据えて、錯綜する情報を自分なりに取捨選択し。

 戦う訳ではないにせよ、必要以上に恐れをなして、踊らされるように逃げ回るように。

 不安に弄ばれるような、無様な姿は見せたくない。

 自分に、そうやってしっかりと言い聞かせています。

 

 

 願わくは。

 今尚衰えることのないウイルスの脅威。そこから放たれる不安や恐怖が、少しでも早く潰えることを、願っています。

 

 

 

 

 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

 

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【価値観・生き方】人の痛みを知る 〜痛みを、知っているからこそ〜

 パンデミック発生から、早くも2ヶ月が経とうとしています。

 その間に沢山のことが起き、未だに収束する気配すら見出だせずにいます。

 

 新型肺炎ウイルスの発覚。爆発的な感染。世界各国での罹患者の増加。

 日本国内では、政府の対応をめぐる賛否。根拠のないデマから始まった、生活用品の不足。

 

 それに対して、ウイルスに対する特効薬やワクチンの開発。マスクの供給見込みといった明るい話題は、余りにも少ない。

 

 情報ばかりが錯乱して、何が正しいのかどうかさえ危うくなっています。

 2020年という年が始まってから、明るい情報が皆無なことに虚しさのような思いを抱えている、白兎です。

 

 

 皆さん、おはようございます。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 先日、清掃スタッフの方と偶然お話しする機会がありました。

 そのやり取りの中で。

 仕事をする上での、立場や境遇などというものは、そこにはありませんでした。

 飽く迄、一人の「人」と、同じ立ち位置で会話をしている。そんな感覚を抱くような思いでした。

 

 その方が抱える家庭的な事情はわからないながらも、深追いするようなことはしてはならないと自分に言い聞かせながらも。

 たった数分のやり取りの中で、言葉や声色から、悲しさや苦しさのような感情を何となく受け取りなるだけに留まらず。

 「痛み」のような、何か。

 言葉では言い表わしにくいながらも、私なりにそのようなものを感じ取りました。

 

 

 今回は、怪我や病気で身体が訴える痛みとは別の、痛みについて。

 人それぞれで深さや広さの異なる、心の痛みという感覚について、綴っていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 何気ない会話の中に見出した、痛み

 

 

  それは、本当に特別でも何でも無い、日常のひと時でした。

 

 一仕事終えて休憩がてら、喫煙部屋で一服している時。

 清掃という仕事を果たすべく、清掃スタッフの方が喫煙所へ入ってきました。

 その方は、これまでも少しながらではありますが、プライベートなお話しをさせてもらっている方でした。

 私よりも、断然年上の方です。

 お掃除の邪魔をしてはいけないと、スタッフの方が入られた時、私は腰掛けていた椅子から離れて端っこに移動するように心がけています。

 そこでいつも、スタッフの方か「申し訳ありません」と言われてしまうのですが、煙草を吸う私からすればお仕事の邪魔になっている気になって、「あ、こちらこそ申し訳ないです」と口が勝手に動きます。

 

 そこまでは、仕事という日常をこなす上で、特段変わらないやり取りでした。 

 

 しかしそんな中で、私が不意に「暗い話題、ばかりですね」と口走った瞬間。

 スタッフの方が、急に掃除する手を止めて、私を見詰めてきました。

 

「本当にね。トイレットペーパーやティッシュペーパーがなくなって、次はお米も品薄になって、ゴミ袋までなくなるなんてね。ここまで来たらもう、家族全員お陀仏になっても良いって話になってるんですよ」

 

 いつもなら、人の目を見ることを怖がっているような私なのに。

 その時だけは、どうしてか。

 手を止めて、独白するかのように話すその人から、目を離すことができませんでした。

 

 寂しさのような、虚しさのようなものを零すスタッフの方に、私は相槌を打ちながら、聞き入るようにひたすら相槌を打っていました。

 そして直後、私は自ら感じた思いと、本音を重ねるように。

「全くです。世の中の状況に食い下がってでも生きたいという気持ち、私にもありませんよ」

 そう、口走っていました。

 

 スタッフの方は、そんな私の言葉に反論することもなく。

 「本当、笑っちゃうよね」

 嗄れた声と共に、笑っていました。

 

 清掃の終わりと、喫煙を終えた私とスタッフの方が喫煙室から出た時に、その方は。

 急に声色を落として、まるで項垂れて零すかのように、言葉を並べていました。

「すみませんね、愚痴、聞いてもらっちゃうようなことになって」

 

 その瞬間。

 私は反射的に「とんでもないことです」と返すと共に。

 「こちらこそ、ありがとうございます。話を聴くこと、好きなんです」

 多分、そう言った私は、笑顔だったのだと思います。

 

 スタッフの方が驚いたかのように「そうなんですか?」と聞き返してくる一方で。

 「ええ。一方的に意見をぶつけるようなドッジボールは、嫌いなんですけどね」

 などと、生意気を言う私を。

 その方は、微かに笑うような声を漏らしていたような気がします。

 

 直後に、「ありがとうございました」と掛けられました。

 

 その言葉の真意は、わかりません。

 ですが、私も。

 「こちらこそありがとうございました」と返していました。

 

 

 私とスタッフの方以外、誰もいない喫煙室で。

 たった数分の合間に交わされた会話

 

 それは、無闇矢鱈に話せるような、軽いことではないこと。

  立場や境遇など関係なく、誰かに訴えたいことであることを直感的に感じました。

  そしてその言葉の数々が、苦しさや辛さといった負の感情を全て乗せているかのように思えてなりませんでした。

 その直後こそ表現できそうな言葉は思い浮かびませんでしたが、こうして記事にしている今は、私なりの言葉で言い表せるものがあります。

 

 心の痛み。

 

 怪我といった、外見的にひと目見てわかるような視覚的な痛みではなく。

 

 胸張って誰にでも言えるようなことではない、本当の気持ちを零した時に垣間見られるような、感情とも思いとも言えるもの。

  

 スタッフの方が愚痴と表現した言葉や気持ち。

 私には、それが心の痛みというものとして感じ取っていました。

 

 

 

 

 自分が負った、癒えることのない痛みと照らし合わせていた

 

 

 清掃スタッフの方が零した言葉や声色から。

 この時は、かつて私が負って、今尚カサブタにすらならない心の傷や痛みと捉えて、無意識ながら照らし合わせていたのだと思います。

 

 

  今までは適当に相槌を打って、いかにも「わかりますよ、その気持ち」と安易に同情するような姿勢で乗り切ってきた場面の数々を。

 

 今回は、そういった感覚はありませんでした。

 それ以上に。

 「誰にでも言えるようなことではないものを抱えている人が、私以外にも沢山いるんだ」と思いを改めて抱くと共に。

 少しでも、相手と同じ立ち位置で向き合おうとしている自分がいることは確かでした。

 

 

 私はどうしても。

 お会いした方の見た目や声音や口調といった、直接五感で感じ取れる相手の仕草や。

 ブログのように、外見を簡単には測れないようなものであっても、惹かれるような記事があっては見入って。

 それらが、あたかも自分のことのように勝手に入り浸って。

 その度に、私が抱えている痛みと照らし合わせるような形を以て、知ろうとして、共感しようとしてしまいます。

 

 しかし、一方で。

 思考という理性を介さずに勝手に動いてしまう、私の思いは。

 それは、本当に共感と呼べるものなのか。

 時折、そんな疑念の矛先が自分自身に向くことがあります。

  自分の本当の気持ちでさえ、わからなくなってしまうことさえ、今もあります。

 

 

 いつの日か、そんな惑うような思いを許容しながら。

 そういう自分があっても良い、と思える日が来ることを、自分に言い聞かせるように願っています。

 否。願うだけではなく、行動として、考え方として変えられるようになりたいと、切に思うばかりです。

 

 

 

 

 自分の痛み≠人の痛みだとしても

 

 

 話が逸れてしまいましたが、戻したいと思います。

 

 

  私の場合、と限定させていただくと。

 

 イジメからの人間不信。認めたくないイジメから逃避して勉学を怠り、高校受験にも失敗して。

 会社に入ってからは自分を含めた人間不信は収まることなく、怯えるようにしながら、人の顔色ばかり伺ってきました。

 最後は、自分という存在から離れてしまった意識が、いつのまにか、他人に認められたいという認識となって行動し続けた末路は。

 自分を。精神を殺す病。

 死にたいというよりも、消えたいという意識がいつまでも残り続けていました。

 

 

 逆に言えば、そういった挫折や精神の病を患った私は。

 その時に、一度死んだのだと、今では思っています。

 

 

 死んでも尚、この世界を生き続けている私は、経験してきたことを痛みとして覚えて。こうして、ブログを綴るに至っています。

 

 

 そんなことを言っておきながら、おかしなことなのかもしれませんが。

 

 

 

 様々な逆行や苦難をバネにして頑張ろうとしても、肉体的・精神的に叶わなかった。

 もしくは世間的に蹴落とされた経験を「復讐心」に変えてでも、進み続けることができなかった。

 或いは現状を以て、本当に必要としているのにも拘らず、手に入れることがという現実を目の当たりにして絶望してしまう。

 

 そういったトラウマや引け目を取るような出来事に遭遇して。

 心の痛みとして残って、抱えて続けて。

 それでも、懸命に生きているのではないかと、勝手ながら思っています。

 

  

 先述した私の痛みは。

 他の人が抱える痛みと一致することは決してない、と思っています。

 

 

 そうだとしても。

 痛みを抱え、知っているからこそ。

 相手の全てをわからないながらも、喩え少しでも寄り添えるように。

 願わくは、その人が抱える思いや感情と、対等な立場に立って向かい合えるようになりたいと、私は切に願っています。

 

 トラウマや絶望を目の当たりにして、一度死んだという歪んだ認識を持っている、私ではありますが。

 人それぞれが抱える痛みの深さや広さは、決して杓子定規で測れないことは承知の上で。

 単なる捌け口になっても、厭いません。

 

 決して、奢ることも、上から目線になるようなことにならないようにしつつ。

 痛みを抱く者同士が、傷を舐め合うような間柄にならないようにしながら。

 

 そうすることで少しでも、心が安らぐ時間を得られるのであれば、私は幸いです。

 

 

  未だに自分の気持ちさえ捉えきれていない私ではありますが。

 抱える痛みを、独りで抱え込まないでほしいと勝手ながら願っています。

 決して多くはないかもしれませんが、誰かにそっと思いを吐き出すことで、安らぎのようなものを得られると私は信じています。

 

 弱みを見せまいと独りで抱え込み続けた私が。

 親友に吐き出せたことで、今の私を少しでも認め始めることができているからです。

 

 

 

 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

 

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【Aセクシャル・SOGI】性自認、性的指向を ~一括に、しないで~

 早くも2020年も、3月に入りました。

 

 明るい話題は少なく、相変わらず不安を煽るような暗い話が、世の中を支配しています。

 紙類の枯渇が、根拠のないデマだと言われても。

 デマをデマとして捉えることができない、所謂情報弱者から見れば、どんな情報も信用できなくなります。

 その現実が、店頭から消えていく紙類を求め、あたかも奪い合いのような事態になっていると思えてなりません。

 

 噂では、マスクを求めるが為に、暴行沙汰にまで発展したとのことでした。

 

 自治体や販売店が、「冷静になって、対処してください」と言われても。

 「何を信じれば良いのかさえわからなくなっている」人たちからすれば、そういった言葉は、最早通じない。

 

 

 先日散髪に行って参りましたが、相変わらずドラッグストアは長蛇の列ができていました。

 各国で必死に対応している中で。

 責任を取るという言葉だけを繰り返すお偉い方々に、もう何も期待もできない。

 

 相変わらず全てのことに対し斜に構えている、白兎です。

 

 

 皆さん、おはようございます。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 

 新型肺炎が世界的に大事なる、丁度一ヶ月程前。

 会社が企画する、「ハラスメント研修」というものを受講して参りました。

 

 セクハラ、パワハラ、マタハラ。

 最早何でもかんでもハラスメント、という言葉を付ければ、全てハラスメントとして処理されてしまう現代。

 言い方は悪くなりますが、わざわざ講習会を開く程の内容ではなく、ネット上に幾らでも転がっていることを綺麗に纏め上げた、そんな内容でした。

 私も、Aセクシャルを自認する者として、あらかたそういったことを知った上で受講しました、得られることは然程多くありませんでした。

 それ以上に。

 この時もまた、私は疑念しか覚えぬまま帰路についていました。

 

 今や企業や世間体では当たり前と化してきている、セクシャルマイノリティ。

 講習会も、それを大前提として進められました。

 そこまでなら、まだ流すことができたのかもしれません。

 

 ですが、どうしても私が解すに至らなかったことがあります。

 それが「ジェンダーハラスメント」というものを強調していたことです。

 

 

 今回は、生まれ持った性を前提とする、性自認や性的指向について、今一度考え直していくと共に。

 そして、かつて私もLGBTQ+という形で示して来たことを。

 別の指標として表す、「SOGI」というものについて、綴っていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 性的指向を示す、LGBTという言葉

 

 

 これまでも、私はセクシャルマイノリティやAセクシャルについて、記事として上げて参りました。

 

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

 

 この時はまだ、LGBTというセクシャルマイノリティ。

 つまりは「自分がどのような対象に対して、恋愛感情や性的感情が向かうか」という視点でしか、見ていませんでした。

 

 そこでも、私はLGBTという言葉に含まれていないことについて、私なりの言葉を用いて記事として上げました。

 

 恋愛感情は持てても、性的要求は持てないノンセクシャル。

 恋愛感情や性的欲求の向かう先がわかならない、クィア。

 そして、他者に恋愛感情も性的欲求も持たない、Aセクシャル。

 

 ここ数年、LGBTという言葉の急速な発展に伴う形で。

 企業も「LGBT」というものを、まるで強調するかのように理解を求め、研修や講習会を積極的に開いています。

 

 それでも尚、LGBTに当てはまらない、上述する人たちのことについて、触れることは一切ありませんでした。

 

 その度に、私は憤りとも虚しさとも取れる思いで。

 

 研修等を企画する会社上位陣に対して、LGBTという枠では収まらない人間もいると、無駄だと思いながらも訴え続けてきました。

 

 その結果は。

 お察しの通り、何も変わることはありませんでした。

 

 セクシャルマイノリティという言葉が独り歩きするかのように、それを企業として「推し進めている」というアピール材料としている。

 私には、そう思えてなりませんでした。

 

 会社に求めることは、無意味と思ったからこそ。

 ブログでは、敢えて「LGBTQ+」という名目で記事を上げました。

 

 今思えば。

 そういうものがある、と知って貰いたい以上に。

 Aセクシャル自認の私を、誰かに認めて欲しいという思いの方が強かったのだと、省みる形で思っています。

 

 

 

 

 時代に合わせざるを得なかった、性自認や性的指向

 

 

 LGBTという指標は。

 これまでの多くの人たちが信じて止まなかった認識を改めるものであることは確かだと思います。

 生まれ持って得た、身体的、或いは精神的としての男性や女性という性。

 それがいつしか、男らしさや女らしさという言葉に勝手に置き換わって。

 異性に恋をして、愛し合って、子を育む。

 その上で、男性は男性の、女性は女性の「役割」と信じられてきた、古典的なもの。

 

 日本は保守的故、古き良き時代を好み継続しようとするかのように、私は見えていました。

 それに異を唱えるように出てきたものが、セクシャルマイノリティであり、LGBTという概念です。

 

 しかしながら、です。

 他者から、どれだけ性的指向を尊重しようと言われても。

 それまで当たり前だと思われてきた、日本の文化に無理やり適用させようとするなど、無理にも程があると思えてなりません。

 自分が持った性自認を基本とし、異性に恋して結婚して、子孫を残し繁栄していく。

 それができない人間は、異端どころか「異物」扱いされて。

 洗脳のように矯正されて順応させる。

 

 極端な言い方に聞こえるかもしれませんが。

 私の母も、そうやって時代の流れに抗えず渋々結婚し、子を産んだと言っています。

 今の時代に生まれれば、絶対に結婚などしなかったと豪語する母。

 そんな意志の元産まれた私や兄は、いらない存在なのかと、聞いたことさえあります。

 母は、私たちを産んだことを決して後悔していないと言っています。

 

 だからこそ、私は余計強い思いを抱いているのかもしれません。

 

 男だから、女だからという杓子定規で計られたばかりに。

 誰が、そんなものを勝手に決めたのだ、と。

 そして、それから外れたものは、ヒトとして存在してはいけないのか、と。

 

 そこに慌ててLGBTという指標を持ってきて、説き伏せるように教育して。

 LGBT。セクシャルマイノリティを犯すことがあれば、即ハラスメントに繋がると、半ば脅されるように言われても。

 

 性自認や性的指向を理解されるどころか。

 不必要な脅しにも似た言葉だけをかき集めることで、コミュニケーションを阻害する材料を作って。

 年配者や若者という、考え方や価値観が異なりかけている両者の間に、隔たりを敢えて作っているようにしか、私には見えません。

 

 性自認や性的指向を大切に、などと言いながら。

 ただ単に、企業内でそれらに抵触することで報道沙汰になることを恐れている。

 それを防止する為の取り組みのようにしか見えません。

 

 LGBTという指標は。

 企業が取り組むことで信頼性を保つ為にあるものではないと、私は信じています。 

 

 喩え、どこかで偏見の目で見られるようなことがあったとしても、性自認や性的指向というものは、私は知っていただきたいと切に願うばかりです。

 

 

 

 

 新たな指標、SOGI

 

 

 

 LGBTだけでは、最早情報不足となりかけている性自認、性的指向。

 置き換わる訳ではありませんが、併用される指標が近年では注目されてきています。

 

 それが、SOGIというものです。

 

 「Sexual Orientation & Gender Identity」の頭文字を取った用語で、読み方はソギ・或いはソジ。

 意味としては「性的指向と性同一性」と約されることが多いです。

 

 SOGIという言葉の、GIは「性同一性」を意味し、生まれ持った身体的な性に対する違和感があるかどうかを示しています。

 仮に違和感がある場合は、LGBTでいうトランスジェンダーに分類されるそうです。

 私は中性或いは無性自認なので微妙な所ですが、それでも性自認を定義する意味では、個人的には喜ばしいことです。

 

 そして、SOGIのSOは「性的指向」を表し、これが従来のLGBTに当てはまります。

 先述した自己の性同一性を基準にしながら、どの性に対して性愛が向くか。

 異性であったり、同性であったり、両方であったり。はたまたどれにも向かないのか。

 私の場合はどの性に対しても恋愛感情も性的欲求も湧かないので、Aセクシャルとなります。

 

 

 より詳細なことについては、詳しく解説されているサイトもありますので、ここでは省略させていただきます。

 

 簡単に言えば、LGBTが性的指向を主たるものとして定められたものに対して。

 

 SOGIはそれに加えて、性自認も加味しているという点で一歩進んでいるように、私には見えています。

 

 

 でも、哀しいかな。

 

 認知度の低さも去ることながら。

 世間的に、特に日本という国においては。

 そういった概念を以てしても、性自認や性的指向は、古き良き時代を踏襲されるような形で、蔑ろにされているとしか、私には思えません。

 

 現に、ハラスメントという言葉が未だに横行される中で、それを正そうとしている姿勢そのものが。

 従来の性自認や性的指向を踏みにじっているようにしか、思えないのです。

 

 

 

 

 SOGIという言葉を知っても尚、悩み続ける自分

 

 

 

 LGBTだけでは括れない人も、数は少ないかもしれないとしても、存在する。

 それを認めようとするように定義された、SOGI。

 

 これまで知りもしなかった用語や定義を知ることができただけでも、私としては大きいものがあることは事実です。

 

 然れど。

 そこで終わってはいけない。

 そういったことを、もっと世間に広げていって、少しでも理解される環境を作っていくことこそ真の課題ではないか。

 

 

 異性だけでなく、同性。そして双方に対してにすら恋愛感情も性的欲求も湧かない私にとって。

 自分だけが、ヒトという生物としておかしい存在で。子孫を残す本能に逆らっているとさえ思える、私自身の性自認や性的指向。

 どれだけ指標としての言葉を以てしても、定義されたとしても。

 未だに、自分自身に疑念を抱き続けていると同時に、悩み続けています。

 

 

 出来うるのであれば。

 そんなことに悩むこともなく、人を好きになって、愛し合って、子を育むことができれば、どんなに良かったか。

 

 そんなことさえ思う私は。

 

 異端なのでしょうか。それとも、ヒトという生き物として欠陥を持っているのでしょうか。

 

 

 問うたところで、何も生まれないことはわかっているつもりです。

 ですが、一つだけ申し上げたいことがあります。

 

 ヒトという生き物として生を受け、育ってきた中で。

 人を愛して子を育むことが当たり前だ、という考え方に、一括にしないで欲しいのです。

 

 他の人が考える以前に、本能的に、当たり前にできることができることが、できない人間がいることを。

 私以外にもいることを、どうか知って欲しい。

 

 

 否。

 欲しい、と願望ばかり訴えるだけでなく。

 

 私自身も、同じように悩む誰かを。

 ひいては、別の問題や悩みを抱える誰かを、許容し共感して。

 自分だけが、辛い思いをしている訳ではないことを、この身を通して実現していきたいと思っています。

 

 人の痛みを知って、少しでも理解し寄り添うことができれば。

 全てでないとしても、痛み分けという訳ではありませんが。

 その分、優しくなれるはずと、信じているから。

 

 

 

 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

  

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【情報社会・デマ】情報社会の脆さ 〜簡単に崩れ去る現実〜

 連日報道される、新型肺炎。

 感染拡大や症状に関する話題よりも。

 これ以上の拡散を怯えるかのように、様々な遊楽地や博物館の閉館、無観客試合の決行、そして前代未聞の全国の学校一斉休校。

 

 最早、簡単には止められない事態となっているのは、わかっているはずなのに。

 全ての対応が後手後手に回っているようにしか、私には見えません。

 新型肺炎ウイルスが話題になり始めたのが1月の上から中旬だったはずなのに。

 2月が終わろうとしている今になって、行き当りばったりな方針を出しているのでしょうか。

 

 

 そして、既にお察しの方も大勢いらっしゃるかと思いますが。

 感染者数や検査や、症状ついて報道されないのは何故でしょうか。

 他国では爆発的に感染者数が跳ね上がっているのに。

 どうして日本だけは、「いかにも感染が緩やかに」広がっているかように伝えられているのでしょう。

 噂の域を出ませんが、日本は他国よりも新型肺炎の検査を1/10程度しか行っていない、との情報すらあります。

 

 ここまで杜撰とも言える対応状況を見るだけでも、意図的に情報操作を行っているようにしか見えないのは、私だけはないはず、と勝手ながら思っています。

 

 欺瞞するように動く日本の動きの裏。

 ほぼ間違いなく、今年開催される東京五輪を懸念しての対応と見て、ほぼ間違いないと思っています。

 

 今回ばかりは、申し訳ありませんが批判的な意見となります。

 お気に障るようなことがありましたら、コメントや問い合わせからご意見ください。場合によっては本記事を削除いたします。

 

 ですが、日本という国に住む人を蔑ろにしてまで、五輪開催を目指そうとしている政府の動き。

 今を生きる人の命や意志を無視してまで、既に手遅れとなっている経済効果を重視するのか。

 そこまでして、地位や名誉が欲しいのか。

 国を背負う立場でいながら、小学校の学級会レベルのお話し合いしかできないお偉い様方の考えはわからないし、私は理解も擁護したいとすら思えません。

 加えて、今日見てきた惨劇を目の当たりにして、そういった怒りにも似た感情を包み隠すことなどできなくなっている、白兎です。

 

 

 皆さん、おはようございます。如何でしょうか。

 

 

 自己保身しか考えていないお偉い様方のことなど、ゴミ箱に捨て去るとして。

 数日前、SNS上で。

 とある人が発した一言によって、現実が簡単に崩れ去ってしまう場面にでくわして参りました。

 

 今回は、情報操作など厭わない報道。

 それに便乗する形で、まるで愉快犯のように、SNSを用いて混乱と不安を撒き散らす輩が情報社会と化した現代を混乱させていること。

 そしてそのようなことだけで、見秩序を保っていた現実が、いとも簡単に崩壊してしまう現代について綴っていきたいと思います。

 

 

 ※注記※

 情報管理を職務とする身として、本記事は胸糞悪さや批判的な言葉が多くなります。

 ブログを書く一人として、飽く迄俯瞰的視点で記事を書こうと思いながらも。

 個人的主観が出てしまうことを、どうかご容赦ください。

 この注記を許容できない、と感じた方は、申し訳ありませんがお引き返し願います。

 ※注記終了※

 

 

 

 

 

 

 

 

 崩壊寸前の現実でも、デマにより注目を集めようとする輩

 

 新型肺炎ウイルスに関するニュースは、日を追うごとに悪路を辿っています。

 名を馳せるリゾート地の閉園。各地の博物館や名所が次々と閉館。

 唐突とも言える異常事態に、困惑する人々。

 

 普段なら観光客で賑わう観光地でさえ宿泊施設の予約のキャンセルが相次ぎ、過疎化しているとさえ聞きます。

 加えてアーティストのツアーや各イベントの中止、或いは無期限的とも言える延期。

 これだけでも、各業界が負うこととなる負債は計り知れません。

 

 追い打ちを掛けるが如く、政府から唐突に要請された学校の休校。

 企業に対する、通勤時間変更やテレワークの推進。

 

 年明けまでは、何もかもが当たり前で、何も変わらない普遍的だった現実が。

 切っ掛け一つで、崩壊寸前にまで様変わりしかけている、と思うのは私だけでしょうか。

 

 

 そういった、国や人の存亡が危ぶまれる中でも。

 

 SNSという匿名という優位性を利用して注目を集めようとする輩が、このような事態でもいることに驚くを遥かに通り越して、私は呆れる思いでいます。

 

 既知のことと思いますが、その内容は。

 

 

 ティッシュペーパーやトイレットペーパーが、品薄になる。

 それらの原材料は、中国から齎されるから、というものです。

 

 

 確かに、中国からの輸入制限などは制限されています。

 しかし、上記の確証もない発言に対して。

 

 ティッシュペーパーやトイレットペーパーの原材料は、純国産。

 そして、生産されるそれらのほぼ10割は日本国内で作られている、と生産会社が断言しています。

 加えて、店頭に並ぶまでに時間は掛かるかもしれないが、マスクのように品薄になることはない、と訴えています。

 

 

 そうは言われても、信じられないと不安に思う方も、多いと思います。

 

 ですが、SNS上で根拠もない情報を垂れ流した輩。

 何を以て、ティッシュペーパーやトイレットペーパーの原材料を中国と決めつけているのか、と思わないでしょうか。

 

 逆に、そういった製品には。

 「家庭用品品質表示法による表示」という、確固たる法律に基づいて、「日本製」「〇〇県製造」といった形で製造元や製造会社について、虚偽なく記載されています。

 法律で定められている以上、これに違反するようなことがあれば、企業として罰せられる対象になる、ということになります。

 

 SNSという、投稿者不詳の情報を信じるか。

 法律として定められた、製品を販売する会社を信じるか。

 

 どちらが正しいかは、目に見えているはずです。

 

 

 

 デマに流されるな、と言われても

 

 

 しかしながら、私個人の意見としては。

 日本は、情報というものに簡単に流されていまう傾向にあると思わざるを得ません。

 

 その現実を、この目で目の当たりにしてきました。

 

 ティッシュペーパーやトイレットペーパーを、少しでも手にしようと。

 開店前のドラッグストアやディスカウントストア、スーパー。挙げ句には農具製品売り場でさえ、軒並み行列ができておりました。

 お店の入り口には、軒並み「マスクは在庫切れ」という張り紙が見えました。

 それでも尚、競うかのように列を作る人々は。

 間違いなく、マスク目当てではなく、先述したデマを。

 ひいては、情報を流すマスコミやインターネットの情報を信じ込んでいたのだと思います。

 

 

 私は本日、切れそうだった目薬を目当てにドラッグストアに寄って参りました。

 公私共にパソコンに向かい合う私は、常に目が乾き気味で、疲労を感じています。

 それを少しでも和らげる、愛用する目薬はあるかな、などとゆっくり歩む中。

 行列を成していた人々は、ティッシュペーパーやトイレットペーパーが陳列する箇所に、駆け込んでいきました。

 ドラッグストアの方が「順番通りにゆっくりお進みください」とアナウンスしても。

 

 それは、さながら。一歩間違えれば。

 略奪、とさえ見える光景でした。

 

 市町村だけでなく、一つのお店でさえ、「品薄の製品があります」と謝罪しつつ、「在庫は十分あるので、買い占めは控えてください」とアナウンスしているのにも拘らず。

 

 たった一つのデマが、民衆を暴徒と成し得る。

 根拠のない情報次第で、これまで当たり前だった現実が、簡単にも崩れてしまう。

 

 そういった光景を、漫画やアニメといった、幻想世界では見てきた私ではありますが。

 

 それが、現実になってしまったことを目の当たりにして、不安を覚える一方で。

 情報社会となってしまった現代では、現場の確実な言葉よりも。一度広がってしまった虚偽的な言葉の方を信じてしまう現実を見て。

 

 なんだよ、これ。怖いよ……

 

 ただ目薬を求めて来ただけなのに、そんな思いに刈られて、心のどこかで震えている私がいることを実感しました。

 

 それ以降も、日用品や嗜好品を求めて行く先々で。

 ティッシュペーパーやトイレットペーパーは、完膚なきまでに買い占められていました。

 

 

 

 情報社会の上で、根拠のない情報を流した場合

 

 

 これまで経験したことのない、惨劇とも思える現実。

 それを齎したのは、SNSという隠れ蓑を盾にした一人が垂れ流した情報であると個人的に思っています。

 

 ティッシュペーパーやトイレットペーパーが品薄になる、という根拠のない情報を流した御本人は。

 デマであると認識されるまで、然程時間は掛かりませんでした。

 御本人はその情報を投稿した後、直様アカウント停止して逃げたようでした、が。

 

 一度世間に流れてしまった情報は、消すことは不可能です。

 そして、その本人は漏れなく様々なルートを用いて、必ず特定されます。

 

 現に、日用品が品薄になるという偽りの情報を流した御仁は。

 本名だけでなく、現住所や勤める会社、家族や身内といった情報まで、全て掌握されています。

 

 匿名だから身元まではバレないだろうと、情報社会を甘くみた者の末路が見事に描かれかのようです。

 

 喩え一時の情勢に乗じる形で、注目を浴びたいという矮小な思いで行った行為であったとしても。

 世界が不安に怯える中で、そのような卑劣な行為を行った者は、容赦なく追い詰められます。

 アカウント削除といった逃亡を図ったところで、そのような行動は無意味。

 必ず、特定されます。近い内に、社会秩序を乱し虚偽的情報を流したという罪で罰せられると思います。

 

 

 危機的状況に乗じ、嘘偽りを垂れ流し民衆を不安に陥れ、不必要な行動に刈らせるような状況にした。

 SNSでしか自己表現できない、或いは注目を集めたいなどという卑劣な行為を行った場合は、以下のような罪に問われる場合があります。

 

 

 「虚偽の風説を流布し,又は偽計を用いて,人の信用を毀損し,又はその業務を妨害した者は,三年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処される」

 

 これは偽計業務妨害罪という罪で、「本来業務に支障が生じた場合だけでなく,虚偽の風説への対応(これは,「本来業務」ではない)が必要となり,それによって本来業務が停滞した場合も含む」と刑法で定められています。

 

 また、これにより逮捕される可能性も否定できません。

 これは刑法によって定められています。

 法律は難しく、かつ曖昧な表現を含むので、この場では省略させていただきますが。私なりに要約させていただくと。

 

 新型肺炎ウイルスが国民を脅かす中、不安を煽り、これを増長するような情報をSNSという極めて広範囲に情報が拡散し得る媒体を用いて発信した。

 その行為が非常に悪質であることは事実であり、場合によっては「見せしめとして」の逮捕されかねない。

 

 情報発信された御仁の行く末はともかくとしても。

 世界的にでさえ崩壊しかねない状況であっても、尚も注目を集めたいといった自身の承認欲や顕示欲。もしくは、もっと小くて、些細な欲望があるのかもしれません。

 いづれにしても、情報社会を利用して、現実を壊しかねない偽りを造り、現に多くの人々が嘘で塗り固められた引き金を引いてしまったことは、紛れもない事実です。

 

 その罪は、どんな言い訳をしようとも。必ず罰せられます。

 バイトテロやバカッターと同じように。

 情報を簡単に発信できるようになった一方で。

 現実に影響する重みを知らないからこそ、そういった軽率な行為を取れると思うのは、私だけでしょうか。

 

 

 

 

 

 情報社会を参考にしながら、現実を見定めて行動する

 

 

 今回の記事は、個人的な思いが入り混じったが為に、罵りや汚い言葉が多くなってしまいました。

 

 申し訳ありません。

 

 情報社会をとも簡単に混沌へと陥れ。

 現実世界へも影響を及ぼした輩に対して、個人的に我慢ならないばかりか。

 不快さ、のようなものを覚えています。

 

 

 現代ならではの、誰もが簡単に使えるようになった情報社会。

 それを利用して、たった一瞬であったとしても。

 注目を。世間の目を向けられるようなことは、長い目で見れば無意味で無価値であると個人的に思うと同時に。

 情報管理を職務とする一人として、そのようなことは卑劣なことだと、今一度申し上げます。

 

 そのようなことをする位なら。

 もっと、自己を表現する手段は、幾らでもあると思っています。

 

 寧ろ、詰まらないデマを垂れ流して、逃げるなら。

 始めから黙っていろ、と言わせてください。

 

 

 

 最後まで汚らしいj言葉ばかりでしたが、最後まで御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

 

 

 

 

 

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【価値観・生き方】仮想世界への逃避 ~詰まらない現実を見捨てて~

 インターネットやSNS、そしてゲームや漫画。

 現実世界と繋がっているように見えて、そこに熱中している時は、現実という世界を忘れるかのように没頭してしまうもの。

 

 今の世の中は、新型肺炎に関する話題で埋め尽くされていますが、他にも世界情勢や株の値動き、もっと細かい所では芸能人や政治家に関する話題ばかりが彩っています。

 より自分自身の視野というものにフォーカスしていくと、自身が勤める会社の動きだけに留まらず、学校での出来事。

 果ては人間関係や各々が抱える病気や環境に起因する、昏いものばかりが映し出されるように思えます。

 

 良く、小さな幸せの為に人間は生きている、という言葉を耳にしますが。

 それよりも遥かに詰まらなくて、下らなくて、見たくもないことだけが広がるのが、現実というものであると個人的に思えてなりません。

 

 かく言う私もそういったものに簡単に辟易し、ついインターネットやSNS、ゲームといった仮想世界に入り浸る日々を送っております。

 マイナーなゲームアプリですが、スドリカというゲームにおいて。

 先日実装されたばかりの新キャラを手にすることができて、仕事という現実さえどうでも良いとさえ思いでいる、白兎です。

 

 

 皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 書き出しから飛ばしている感を抑えられていない、と思っておりますが。

 

 現実というものに対して、私は。

 世界で起こっている大惨事は兎も角として。

 芸能人や政治家の話題や活躍に、全く興味や関心が湧きません。

 特に芸能界というものは疎いにも程があり、芸能人や有名人、興味があるアーティスト以外の話題を振られても、真っ当な回答すら返せないという有様です。

 

 身内でも芸能人の名前が飛び交うことが多々ありますが。

 私が「誰、それ?」と大した関心もなく聞くと。

 「そんなことも知らないの?」と逆に詰られる程度に、私は現実に疎いです。

 

 疎いというよりも。

 世間で活躍する人物たちに、興味すら持てない、といった方が私の場合は正しいです。

 

 逆に言うと、それ以外の回答が見つかりません。

 同時に、妬みといった感情は思い浮かびません。

 などと思うと同時に。

 興味がないという言葉を盾にして、現実世界を投げ捨てて、仮想世界に入り浸ることはおかしなことなのだろうか。

 そんな、ネガティブにすら捉えられる抱いてしまいます。

 

 今回は、私個人としては余りにも詰まらなくて希望さえ見出だせない現実と。

 現実と繋げっているかどうか朧気な、仮想世界。

 相対するような世界同士について、私の体験談を交えながら綴っていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 現実世界で、強く生きられるだけの力を持つ人がいる一方で

 

 

 周りを見ていても、仮想的、或いは幻想的な世界に入り浸ることなく。

 現実というものをしっかりと見定めて、邁進し続けている人は沢山います。

 

 その原動力は、様々あると思います。

 自己に対する、絶対的な自信。

 生まれ持った、人を先導できるだけの頭脳とカリスマ性。

 培い蓄え続けたことで得た、誰にも負けない経験値。

 挫折を跳躍力として、過去を繰り返さないよう、二度と屈しない為に決死の努力と決意によって克服した自負。

 

  喩え心のどこかで、葛藤や悩みは少なくないとしても。

 そういった人たちは、少なくとも第三者から見た場合、現実を強く生きているかのように見えます。

 

 誰もが、そういった強さを持っていれば、世界は変わるのかもしれません。

 

 ですが、そんな人たちがいる一方で。

 現実世界に。目の前の出来事に疲れ、困憊して。

 心を折られ、現実と向き合い続けるだけの力を失ってしまった人も多いと感じています。

 

 私も、そんな一人です。

 

 

 

 

 現実に幻滅して、逃げるように仮想世界へ飛び込む

 

 

 

 現実で繰り返される光景を目の当たりにし、何か起こる度に精神を侵食されるかのように不安を積み重ねて。

 自分を何とか保とうと策を講じても、それ以上の慈悲無き現実の数々を味わう日々を送るにつれて。

 苦境を打開しようという強さを見せることもできず、抗いた気持ちばかりが空回しして、挙げ句には現実から逃げるようになっていました。

 

 でも、最後は逃げ場も無くして、耐えられなくなった挙句の果てに。

 何もしたくない、何にも興味が湧かない。生きていること自体が辛くて。現実にも向き合えない自分を嫌悪する。

 精神を病んで、自ら命を絶とうとする寸前にまで、私は追い込まれました。

 

 

 現実に、希望はおろか夢を抱くことさえ愚かなことだ、という歪んだ認識が茨の如く自分を雁字搦めにしていた、うつ病の急性期の中で。

 唯一とも救いと言えるものがありました。

 

 それが、仮想世界というものでした。

 

 その世界に浸っている時間は、現実を気にすることなく、自分の意識を仮想世界へ送り込むことで。

 ゲームであれば、主人公や登場人物に成り代わることで、その世界で最強だとか英雄だとか、そんな優越感に浸ることができて。

 インターネットやSNSでは興味を持った分野に入り込んで、癒やされたり、気分を紛らわせることができました。

 

  今でも、私はその傾向のまま生きています。

 寧ろ、直そうという気も起きません。

 私は、現実に対してとっくに幻滅しています。

 

 

 そんなことを訴えている自分がいる、一方で。

 少しずつではありますが、身内や車仲間、親友とのお付き合いを楽しみ、喜びや味わえる程度にはなりました。

 現実世界において、自分という存在を多少なりとも享受し、「私という人間は、こういう人間だ」と病気を発症する前よりも誇示できるようになってきています。

 

 しかしながら、相変わらず私は現実に立ち向える程の気持ちや強さは、他の人よりも弱いです。

 

 元々、私は自分が興味を持ったもの以外には関心すら向けない性格も相まってなのかもしれません。

 もしくは、仮想的なものに対する興味が、遥かに強いとも言えるかと思います。

 具体的には、創作的なものにのめり込んだり、そういったものに感情移入することが数多い私には。

  現実の出来事や他人の活躍に、興味を持たないことに拍車を掛けているのかもしれません。

 

 そんな自分を、私は現実から逃避して仮想世界え逃げている、とさえ思うこともあります。

 

 

 

 

 

 現実と仮想世界の境界線

 

 

 

 唐突にはなりますが、正直な気持ちでお聞きしたことがあります。

 インターネットやSNSが普及し、多少なりとも現実世界と仮想世界が入り交じるようになった現代において。

 皆さんはどの程度、現実と仮想世界を上手い具合に切り離していらっしゃるのか。

 或いは、両立させることができることができていらっしゃるのでしょうか。

 

 答えのない答えを求めていると思われるかもしれませんが。

 逃げてばかりだった私は、そういった一つの「指標」のようなものが、無性に欲しくなることがあります。

 

 

 

 少なくとも私の場合は、現実に10割向けて生きていける程の強さも、心意気もないままです。

 だからなのでしょうか。

 現実を、職場の状況や人間関係を的確に判断して行動する必要性があると認識しつつも。

 上手く立ち回れない自分を悔やんで。

 否。

 適応できない自分を呪うように、心の中で罵って、責め立てる続けています。

 

 言い訳にしたくはないと思いながらも、実際の私は、現実から目を背けて仮想世界に逃避する。

 或いは、何もかも投げ捨てて、ひたすら独りの時間を確保しようと奔走する有様です。

 そうすることでしか、自分を保つことができない。知らぬ間に、現実に飲み込まれてしまうという恐怖のようなものに。

 

 いつの間にか覚えてしまった、仮想世界への逃避という行為を、私はやめられずにいます。

 

 そして、時々。

 現実と仮想世界の境界線のようなものが、わからなくなってしまう。

 そんな錯覚すら覚える時さえあります。

 

 

 

 

 

  のめり込むことがなければ、仮想世界でも悪いことではないはず

 

 

 

 

 現実を見据え続けて生きていくこと。

 人生という道を歩み、進み続けていく上では切り捨てることはできないことだと思っています。

 しかし、現実を全てありのまま受け入れて、生きていける人は、そう多くはない。

 現実を有り体に見据え、それでも強く生きられる人ばかりの現実であれば、話は全く異なってくるかもしれません。

 しかし、私は。

 そういった人たちがいる影で、仮想世界に自らを投影する生き方があっても、全てが悪いことではないのではないか。

 

 

 戯言のように聞こえるかもしれませんが、今一度はっきり申し上げます。

 現実を強く生きる人たちに対して、私は妬みや憎しみのようなものは覚えません。

 

 

 他方で。

 仮想世界で英雄的立場になったり、注目を集めることに固執する人も、出てきかねない現代。

 相手が不特定かつ圧倒的多数という仮想世界。その特性を利用するような形で、現実を捨て去って、承認欲求を上回るような一時的な注目を集めること。

 現実では得られないからこそ、仮想世界で求めるもの。

 それは果たして、それは本当の自分と言えるのでしょうか。

 

 

 

 結論に至る時に限って、毎度中間的な立場を示してばかりの私ですが。

 

 

 現実世界を見続けるには、余りに辛い。

 適応しようとすればする程、自分という存在を削って、無理に適応しようとする人もいるかもしれません。

 ですが私は、そこまでして自分を削って、売り込むようなことをするよりも必要性などないのではないか、と思っています。

 

 同時に、報道沙汰にならない程度に、時には現実を忘れながらも。

 仮想世界に身を委ねて、他の誰でもない自分という存在を保つことも、選択肢の一つとしてあっても悪くないのではないでしょうか。

 

 

 程度の差があることを承知の上で、私が未だにできないことについて。

 最後にもう一度、問わせてください。

 

 

 皆さんはどの程度、現実と仮想世界を上手い具合に切り離していらっしゃるのか。

 或いは、両立させることができていらっしゃいますでしょうか。

 願わくは、その方法をご教授願いたいとさえ、勝手ながら思っております。

 

 

 

 

 

 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

 

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【車・趣味】夢は、叶えるもの ~夢を、夢として終わらせない意志~

 書きたいと思うことが溜まっていく一方で。

 文字として、文章としてアウトプットするのに、私は時間が掛かるようです。

 加えて私は、書き溜めるということを非常に苦手としています。

  私の場合、文章として言葉を並べていく中で、一度書いたものであっても「あ、何か違う」「もっと良い言葉がある」と思うばかりに。

 文章を書きつつ校正を繰り返すという、とてつもなく面倒な書き方をしています。

 

 もっと的確に、思いを言葉にできれば。

 そんなことを願いつつ実現できていない、白兎です。

 

 

 皆さん、おはようございます。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 過去の記事で「憧れ」というものに触れました。

 

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

 

 この時は、憧れ=手に入れることが限りなく困難なものを欲する欲望、と書き連ねました。

 

 私が書いた文章を、見直していく内に。

 もう一つの側面もあることに気が付きました。

 

 憧れは、夢と定義することもできるのではないか、ということです。

 

 何故、そう思うに至ったかと言うと。

 簡単に手に入ってしまうものは、お金といった対価を払えば手に入れられます。

 そういった対価がないからこそ、憧れて、届くことのない夢として認識するのではないか、と思ったからです。

 

 一生叶わないまま、夢で終わってしまうことは沢山あると思います。

 

 

 ですが、諦め癖がすっかり定着してしまった、他の誰でもない私自身が。

 夢を夢のまま終わらせることなく。

 叶わないだろうと勝手に決め込んでいた夢を、一度実現できた経験があることを思い出した為です。

 

 

 今回は、叶う日など来ないと信じて疑わなかった夢というもの。

 それを、車のオフ会を通して叶えることができたことについて。

 体験談を交えながら、綴っていきたいと思います。

 

 

 

 ※注記※

 本記事は、車のSNSで過去投稿した記事を編集、見直したリマスター版となります。

 また本記事は主観的な内容に偏ってしまいますが、何卒ご容赦くだされば幸いです。

 ※注記終了※

 

 

 

 

 

 

 

 夢は、沢山持っていた

 

 

 人が夢という希望を抱く瞬間は、数多くあると思います。

 物欲だけでなく、才能、地位。

 或いは各種伝説と称されるものに、実際に巡り合ったり自分の目で目にする時間が来ること。

 それこそ、数えること事態が烏滸がましいと言われるかもしれません。

 

 私は幼少期は、叶えたい夢というものを沢山持っていました。

 自分が将来、なりたい職業であったり、なし得たいことを、これでもかと言う程抱えていました。

 実際にそういったものを叶えられるかどうかは別として。

 数多くの夢や希望に、満ち溢れていました。

 

 しかし、幼少期の夢は、飽く迄夢の域を出ず。

 現実は家系的地位や学力、持ち得る金銭がものをいう、かけ離れたものでした。

 挙げ句に、人格否定というものを学生時代に受けたことで。

 

 将来というものに、夢というものに恋い焦がれるように生きていた私は。

 すっかり、現実に幻滅して、人を疑うようになって。

 いつの間にか、かつては沢山の夢を抱えていた自分をも嫌悪するようになっていって。

 夢を「幻想」と捉えるようになり、持つだけ無駄なものと勝手に決めつけて。

 将来や夢を、全て捨て去るようにして、傀儡のように生きる日々を続けるようになっていました。

 

 

 

 

 

 もう一度、夢を見始めていた

 

 

 

 人生に対し、諦めて妥協して、惰性のまま過ごすことを、最善だと認識して久しく。

 

 青春、という言葉すら体験しないまま社会人となった私は、暫し希望や夢というものを忘却する毎日を送っていました。

 

 夢や希望を持つだけ無意味。そんな詰まらない生き方に怒りが差し込んだ、たった一つの切っ掛けでした。

 

 車という、ただの移動手段とも拘る人は拘るとも言われるものとの出会いでした。

 

 貯めていた貯金を使って、数多く存在する車の中から。

 今では「相棒」と呼べる愛車と出会ってから、私は多くのことに対する考え方が変わりました。

 

 MAZDAというメーカーの、アクセラという車を手に入れて。

 思いのままチューニングして、走る楽しさや喜びを覚えていく内に。

 

 一度は自分で閉ざしたつもりだった、希望や夢が、再び芽生え始めていました。

 

 そんな中。

 MAZDAの車と共に、多くの場所へ出かけるようになって、多くの人たちと出会える程になっただけでなく。

 知らぬ間に車を好きになって、カーレースゲームに手を出し始めていく、その中で。

 

 MAZDAを知る者なら、必ず知っている名車の存在を、私は知ることになりました。

 

 その車は、かつて「ル・マン 24時間レース」というモータースポーツ界でも三本指に入るほど有名で過酷なレースの中で。

 それまで外車勢が優勝を誇ってきた中で、日本のメーカーとして、そして今や車社会でも希少種と言われるロータリーエンジンを搭載したプロトタイプレーシングカーが、1991年に優勝を飾った名車。

 

 MAZDA 787B

 

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 ゲーム内や、動画で数多く上がるその吼えるようなエンジン音は。

 時には天使の絶叫とも、サーキットをも轟かせる程、甲高く。

 間接的ではありながらも、爆音とは程遠いまでの、美しい音色とさえ、私は思えるものでした。

 

 聴覚から拾う音に対して。

 私が抱き続けてきた、生き苦しささえ覚えさせる程鋭く尖っていたり、不安を煽るような爆音ではなく。

 この車が奏でるエンジン音は、自分の中で眠る何かを呼び覚ませるような快音であるようで。

 それを、いつか自分の耳で、生のまま聞いてみたい。

 

 いつしか夢とさえ思えるようすら、なっていました。

   

 

 夢を叶えられる日が、突然訪れて

 

 

 

 そんな願望を覚えてから、二年後のこと。

 ちょうど、今の相棒と呼べる愛車に乗り換えてからのことでした。

 

 宮城県にある、スポーツランドSUGOで。

 MAZDA車に乗る人々が集まる祭典として執り行われた、特別なオフ会。

 サーキットミーティング in SUGOと称されるそのイベントが開催されることを、車のSNSで知りました。

 

 その内容は、自分が所有する車で、F1を始めとするモータースポーツでもサーキットとして使われる、スポーツランドSUGOを走ることができるという、日常ではとても味わえないことだけでなく。

 

 夢にまで見た、MAZDA 787Bのデモンストレーションランニングが行われるというものでした。

 

 当時の私は、初めて訪れる場所ということだけでなく。

 初めてお会いする方々ばかりのオフ会に、参加することを躊躇いを隠せずにはいられませんでした。

 

 しかし、それ以上に。

 叶えられないと思っていた夢が、一気に叶うかもしれない。

 

 その思いに刈られるように、私はオフ会に参加しました。

 

 

 

 夢見た地を訪れて

 

 

 

 サーキット会場でのオフ会は初めてだった私には、何もかもが未知の世界であり、幾ばくの不安と高揚感に包まれていました。

 


 オフ会前日の夜に降った雨で汚れた愛車を洗車し、受付場所へを経て。

 そのままスポーツランドSUGOへ入り、既に会場入りされていた皆さんと挨拶を交わしながら、早くもイベントの雰囲気に入り浸りました。

 

 今回はMAZDAファンミーティングということもあり、盛り上がった会場の空気も、会場にいらした人々の数も……全てが圧巻でした。

 

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 自分は今、レーシング会場であるスポーツランドSUGOに来たことを、改めて噛みしめました。

 誰かに誘われた訳でも、強制された訳でもなく。

 他ならぬ、私自身の思いと願いで。

 

 各パーツメーカーの出店や展覧会場を見回りつつ、私の愛車であるアクセラが、実際

にサーキットを走る時間。

 パレードランの時間を、待ちました。

 

 その間、初めて見る名車たちに巡り合うことができました。

 

 

 数々のレースを制覇した、サバンナRX-7。

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 数十年前という歴史を刻みながらも、未だロータリーエンジンの名を語り継がせている、サバンナRX-3

 

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 そうこうしている内に、会場内を、猛るようなエンジン音が響き渡りました。

 
 身体の底から揺さぶられるような、凄まじい轟音。

 しかしながら、心地好ささえ覚える快音。

 紛れもない、走行前調整する787Bのエンジン音でした。 


 動画でしか聞いたことのなかったその音は、生きる伝説の名に相応しいものでした。

 

 この時、奇しくも雨がぱらつき始めていました。

 唯でさえ希少な、787Bを走らせられるかどうか、微妙な天候となっていました。

 

 それでも、夢として抱いた787Bが疾走する様を。名車が奏でるエンジンの音色を聞きたいという思いは、最後まで捨てられずにいました。

 

 787Bのアイドリング作業が行われる中。

 私は車仲間と共に、ある方に出会う瞬間を狙っていました。

 デモンストレーションランニングで787Bのドライバーをお勤めになる、その人は。

 

 ミスタール・マンこと、寺田陽次郎さん。

 

 デモンストレーションランニングの直前のお忙しい中、あたかも突撃取材の如く寺田さんへ直行し。

 

 願っても見なかった、サインを頂戴することができました。

 

 

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 さらに、記念撮影まで嫌な顔一つせず応じてくださいました。

 

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 世界三大24時間耐久レースを完走し、世界のレースで優勝してきた屈指のドライバーでありながら、快く応じて下さるその器の大きさと寛大さに、心打たれました。

 

 

 その後はアクセラパレードランニングの準備に入り、愛車の周りで待機していました。


 そこに響き渡る、あの快音。

 

 猛々しくも優雅でありながら、吼えるような787Bエンジン音。

 

 MAZDA 787Bの走行が始まっていました。

 遥か遠くに見えるコース上を走っているはずなのに。

 サーキット場のどこを走っていても、心の底から揺さぶられる程美しく、会場全体をも響かせ轟かせる音色でした。


 近くでの撮影は叶いませんでしたが、遠巻きから見えるその勇姿。

 いつかは叶えたいと願っていた夢が、一気に叶った瞬間でした。

 

 
 そして今度は、いよいよ愛車と共にサーキットを走るパレードランニング。

 

 多くの名車たちが駆け抜けたサーキット場を、愛車と共に駆け抜けていく。

 

 20分程の時間ではありましたが、始めは緊張で一杯だったものが、走り抜けて行くにつて、高揚感を覚えていました。

 これが、サーキットを走る喜び。愛車と共に走る歓び。そして言葉では言い表しきれない昂ぶる気持ち。

 

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 夢としか捉えられなかったことの数々を。

 この時に、ほとんど全てを叶えられることができました。

 

 

 

 

 

 夢を、夢で終わらせない意志

 

 

 

 

 これまで私は、夢なんて持っても叶うはずがないもの。

 持つだけ持って裏切られる位なら、持たない方が良いと、そんな風に思っていました。
 ですが。


 この体験を通して、それは「夢が叶うことを、ただ待っているだけ」なのだと、実感しました。

 

 夢は、叶うのが待つのではなく、自分から叶えにいくもの。

 今は、そう思っています。

 

 時には、立ち止まってしまう時もあるだろうけど。

 私も、愛車であり相棒であるLupusも。

 どこまでも進んで行ける、そう確信した瞬間でした。

 

 

 ここまで体験を元に綴って参りましたが。

 夢に思ったことが、夢として終わってしまうことの方が圧倒的多数であるのは、事実なのだと思います。

 

 それでも。

 一見届かないように見える夢であったとしても。

 自分の勇気や意志、決意によって。

 夢を現実にできることができるのではないかと、私は思うと共に信じています。

 

 何をしても無駄。何をしても変わらない。

 そう思い込んできた私ですら、切っ掛け一つで夢を叶えることができました。

 

 それがもし、皆さんが持つ夢というものに照らし合わすことができるのであれば。

 

 夢は叶うことを待つだけでなく。始めから叶わないと諦めるよりも。夢として終わらせるものでもなく。

 私のような、かつて希望も夢も捨てた人間でも。意志次第では、叶えられるかもしれないものであると思っています。

 

 夢を、夢として終わらせない。

 その大切さを学んだ、私の中で大きな出来事を元に、綴らせていただきました。

 

 

 

 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

 

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【生き方・人生】許すこと ~相手を。自分を。~

 2月も、いつの間にか数日を残して過ぎ去ろうとしています。

 2020年という新たな年を迎えて、お正月をのんびり過ごして。

 御用始めからかつてない程の忙しさを経験して。

 例年の如く冷え込むことも極わずかで、雪はおろか、車道が氷に覆われる日も片手で数えられる位しかないままで。

 

 片や、新型肺炎の爆発的流行によって、予定されていた研修や車の集まりさえ、全部中止になってしまいました。

 何もかもが、いつもと違うことばかりを経験してきたつもりでいながらも。

 

 一年という限られた月日は、身の回りだけでなく、世界を、人間という存在を脅かすことが起こっても。

 無慈悲なまでに、無意識のままに過ぎ去っていってしまうと思うと共に。

 一個人の感情や思いなどお構いなしに、時間の流れはどこまでも平等であることを感じ、無意味に黄昏れるような思いに浸っている、白兎です。

 

 

 皆さん、おはようございます。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 日常生活を営む中で。

 家族であっても、会社の先輩後輩、または上司であっても。

 時には、自分自身であったとしても。

 誰かに対して、苛立ったり責め立てたいと思うようなことは、皆さんはありますでしょうか。

 

 

 腹立たしいあまりに、その元となった人間を叱咤する。

 状況次第では、声を荒立てて怒りを顕にすることもあるかもしれません。

  或いは。

 他の誰でもない自分自身に苛立って、不満を募らせて。

 自身を呪いたくなる程、憎んでいらっしゃる人もいるかもしれません。

 

 

 何故このようなことを書き始めたかと言うと。

 

 私は、自分自身を誰よりも憎んで、呪って。

 生まれたことさえ憎んでんばかりで。

 人はおろか、自分を許すことができずに生きてきた、その一人だからです。

 

 そんな考えに囚われ、私は十数年という時間を共にすると同時に。

 どうすれば、罪悪感にも似た思いを、思い出を消すことができるのか。

 

 負の感情を払拭がにしたいが為に数多の時間を費やし、調べてきました。

 ですが、そのほとんどは。

 求めていたものとは、程遠いものばかりでした。

 

 

 しかし。

 一つだけ疑い半分でありながら、実践し続けてきたことがあります。

 何度も挫折しましたが、今はその甲斐あって、何とか自分というものを理解して、少しずつ受け入れ始めることができて参りました。

 

 

 それが今回綴っていこうと思っている、許すことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 許すということ

 

 

 許す、と聞いて。

 皆さんはどのような思いや感情が芽生えるでしょうか。

 

 日本語としての「許す」の定義として捉えると多岐に渡りますが、今回私が綴っていこうと思っている内容に絞った上での意味は、このような感じになります。

 

 罪や過失を、咎めないことにする。

 

 罪や過失、と聞くと犯罪を連想させるかもしれませんが。

 より身近でも、頻繁に起こっていると言い換えることができると思います。

 

 例えば、仕事上での凡ミス。

 それが職場内で収束することもあれば、クレームを始めとする問題から更に発展して。

 取引先に迷惑をかけたり、信用問題に派生することもあれば。

 家庭内でも、些細な言い回しの問題や感情任せの発言から、口喧嘩沙汰もなる。

 家族間だけでなく、もしかしたら育児や進学といった、子供の一生響くことに成り得さえするかもしれません。

 

 たった一つのミスや一言であっても、当人以外の誰かから見れば、「この野郎」「勝手なことを」と思われるかもしれないこと。

 

 それを、「今回は仕方ないが、次は気をつけろよ」と職場で叱責する。

 「そんな言い方しないで、もっと前向きに行こうよ」と家庭内で意見する。

 

 許すということは。

 喧嘩沙汰といった大事にならないように、事態を収束させる為に。

 程度の差はあっても、相手の行為や発言を真っ向的に否定しないことだと、私は思っています。

 

 加えて、ここで敢えて対象を明確にしていないことが重要になっていると思っています。

 

 誰かが犯してしまったことを、咎めないこととする。

 それは、職場の社員や身内だけでなく。

 自分自身ですら対象になることも十分ある、と私は思っています。

 

 他の誰でもない、自分以外の人間以上に。

 自分自身を許せるか否かとなれば。

 許す、ということは格段に難しくなると共に。より複雑になってくる。

 私は、そう思わざるを得ないのです。

 

 

 

 

 

 許すことを、簡単にできないことも

 

 

 

 例えば、失態を晒してしまった人が。

 「申し訳ありませんでした。以後気をつけます」という謝罪を述べる。

 もしくは家庭内で、「さっきの言ったことは、その、悪かった」と謝る。

 

 仮にその場や、その瞬間は収められたとしても。

 個人的に。時には集団的に。

 怨恨や疑いが芽生え、残ることで、許すことを難しくしてしまうことは少なくないと思っています。

 

 失敗や失言をしてしまった人間が、どれだけ誠意を込めて謝意を示したとしても。

 

 その全てが、「他人」という存在に伝わり切るとは、私は思えません。

 

 初めての失敗であれば、まだしも。

 例えば、それが何度も何度も繰り返されているような状況であれば。

 

 「またかよ」だとか。「いい加減にしろよ」という、個人的な憎しみを買いかねないだけでなく。

 最悪の場合、「こいつはダメだ」とレッテルを貼られて。 

 最期まで「許されない存在」として扱われかねません。

 

 

 私が、誰かを許したり、許されたりすることが簡単ではないと思う理由は、そこにあります。

 自分がどれだけ「ごめんなさい」と償う思いで。泣くように許しを請う思いでいたとしても。

 他人には、必ずしも全てが伝わるとは限らないと、思っている為です。

 

 

 そうやって、他人に許されることを考える以上に。

 許すこと自体が、難しいことがあります。

 

 

 自分自身を、許すことです。

 

 

 他人に対して、自らの過ちや失態を。

 受け入れられるか否かは別としても、言葉として。或いは態度や行動を以て示すことは、できると思います。

 音場は汚くなってしまいますが。ある程度なら、環境や他の誰かに押し付ける形で、誤魔すことも多少はできると思います。

 

 

 でも。

 自分自身が行ってきたことに、罪悪感や過ちを自覚し。

 それを忘れ去ることができない程、強ければ強い程。

  誰かを許すよりも、自身を許すということは。

 遥かに困難なことであると、私は自覚すると共に実感してきました。

 

 自分の失態を、何かに押し付けるということができないからこそ。

 失態や失礼に値する行為をした、当時は正当化してきたとしても。

 いつかそんな行動を取った自分に苦しんで。

 「もっと、別のやり方があっただろうに」と悔やんで。

 最後は、過去という取り返しの付かない出来事に対して行動を自分なりに選択した自身を。

 何年も。十数年も。何十年経っても。

 悔いるという形で、自分を許せないまま過ごしてきた。

 

 少なくとも。私は、そういった人間の一人でした

 

  

  

 

 

 

 許すこと=許容して認めること

 

 

 

 誰かを許したり、自分自身を許すこと。

 

 許すという単語は簡単に見えて、実際にそうすることは難しいことです。

 私も許すという言葉に囚われて、何年もの間、許すとことに拘り続けてきた結果。

 どれだけ素晴らしいことや納得させられる言葉でさえ、全て「許すなんてこと、できない」と拒絶し続けて来ました。

 

 許すことが言葉以上に容易でないこと。

 それは相手や自分に対する「恨み」や「憎しみ」が強ければ強いほど。

 自分が折れることで、許さざるを得ない為ではないかと、私は思っています。

 

 そこで、相手をや自分を「許す」ことを、上から目線で捉えるのではなく。

 

 許すことを、冒頭で申し上げた「咎めない」こととして捉えれば、少し変わって来ると思っています。

 

 咎めない。

 言い換えれば、「間違いや過ちを犯した」人を許容して、認めることだと、私は思っています。

 

 喩え一時的であったとしても、その人を拒絶することなく、「仕方ないな」と許容する。

 もしくは、完璧に見える人間でも「そんなミスもするんだ」と認める。

 

 

 それだけでも、許すという事柄に対して、少しでも寛容的になれると、私は信じると共に。

 

 喩え、客観的には判断のしようがない、自分自身という存在に対しても。

 過去、どれだけの過ちや周りに反するような態度を貫いて。

 それを否定されて、拒否されたことがあったとしても。

 「あの時は、そうせざるを得なかった」と自分を認めて。

 拒否され拒絶されたことも、「そんなこともあったな」と許容する。

 

 

 とても難しいことを申していることは百も承知です。

 他人は元より、過去や今の自分自身を認めて、許容することは、簡単なことではありません。

 

 私も、十数年の時間を費やして、ようやくそうやって人や自分を、少しずつ認めて許容し始めることができてきました。

 それ位、人や自分を認めて許容して。

 許すことは、この記事だけでなく、誰かが同じように発信する情報を頼りにしても、果てしなく難しいことです。

 

 私が、個人的に思うことは、ただ一つです。

 誰かを、自分を許せずに苦しんでいる人が、許すというキーワードを頼りにしながら。

 それを鵜呑みにすることなく、飽く迄参考程度に留めながら。

 

  人それぞれが異なる経緯や思いを抱えるからこそ、「自分自身と向き合う」ことが許すことの始まりだと、私は信じています。

 

 誰かを、自分を「許して」、今という時間と真剣に向かい合いたいという気持ちと共に。

 その為には誰かを、自分を「認める」という単語が飛び交う中で。

 まずは、一番難しいかもしれない、自分自身と向き合うことから始めて。

 それからどうするかを考えても、決して遅くはないのではないでしょうか。

 

 

 

 貴方は、多少「こいつとはウマが合わない」と思う一方で。

 誰かを認め、許すこと。

 

 そして。

 貴方自身を認めて、許すことは、できますでしょうか。

 

 

 

 

 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

  

 

 

 

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【趣味・小説】Tails Intersecting -Promotion-

 ※注記※

 本記事はこれまで投稿した「Tails Intersecting」「Tails Intersecting -Stalemate-」の続編となる、短編小説です。

 登場人物は私の趣向により、ケモノです。

 この注記をご覧になり、違和感や嫌悪感を抱いた方は、申し訳ありませんがお引き返しください。

 ※注記終了※ 

 

 

 

 

 

 

 

 Tails Intersecting -Promotion-

 

 

 

 ガゼルとして、草食獣として生まれ育った俺は、細身で軟弱な身体のまま育った。

 真後ろ以外は、首を動かせばほぼ全域の状況を把握できる視界を生まれ持って。

 本当なら、食い殺そうとしてくる肉食獣から逃れる為に得たものであるはずなのに。

 今では、目の前のトラが鉄拳を繰り出すことも、周りで怯えるようにして目を逸している他の動物共や。

 俺を取り囲んだトラを含んだ四匹の、「生意気な」と言いたいばかりの歪んだ怒りの表情さえ、全て見えてしまう。

 

 見たくもないものも、見えてしまう。

 

 そんなもの、俺には不要だ。望んで欲しかったものでなんかない。

 もっと他の肉食獣と対抗できるだけの力を望んだ時もあった。

 でも。俺に与えられたものは。

 不利な状況を「視覚」から認知し、如何にその場から「逃げるか」を考える、無駄に回る頭脳だけだった。

 

 

  それが叶わない状況、俺は、どこまでも無力だった。

 例えばそう、今まさに肉食獣の一撃から逃れられないような時は。

 

 本気を出せば、俺のようなガゼルなど一撃で粉々にして、角を残して肉片に変えることも簡単なトラの拳を。

  

 白い毛並みの、ホッキョクオオカミが受け止めていた現実に、俺は恐れて震える以上に。

 一瞬の間に起きたこの状況を、理解できずにいた。

 

「誰かと思えば、まさかお前が来るとはなぁ」

  拳を放ったトラの、極限まで下がった声が、俺を現実に呼び戻した。

 

 改めて、滑稽を凌駕する光景に間違いはなかった。

  肉食獣共に絡まれて、俺は俺なりの答えを返した。

 肩や腕を折られそうになる暴挙を取られても、俺は。

 

 横柄と感じた肉食獣共に、思うこと全てを、吐き出したつもりだ。

 それで怪我させられても、殺されかけても、俺は構わない。

 好きにすれば良い、と諦めたつもりだったのに。

 

 

 死を垣間見えさせる一撃を防いだ、目の前のホッキョクオオカミは、普段から何を考えているかもわからない程寡黙で。

 話し合いの場では黙りを貫いているようでいながら、時々鋭い視線を全体に向けて。

 俺からすれば、高校生の癖に達観でもしたのか、とさえ思っていた。

 

 そんな奴が、俺を、助けた?

 

「朝一から、君が来るなんて珍しいものだね」

「なんだよ、いつも黙ってばかりのお前が、正義の味方気取りかよ」

 ピューマと柴犬が、眉間にシワを寄せながら爪と牙を剥き出す。言葉だけはまだ穏やかそうではあるが、二匹とも戦闘態勢に入っている。 

 その中で。取り囲む四匹の内、一匹だけやけに冷静で、優しげなのか飽き気味なのか曖昧な声色を、ハイイロオオカミが静かに零していた。

「種族は同じだけど、君の行動はやっぱりわからないよ。どういう風の吹き回しだい?」

 ピューマや柴犬は、肉食獣の中では中型に位置している。大型種よりも俊敏さはあるが膂力はない為、闘争本能的に戦う姿勢を丸出しにしているのだろう。

 一方トラやハイイロオオカミは大型種に属しており、戦闘力だけ見れば、俺たち動物界でも 随一だ。

 俺のような草食獣からすれば、脅威以外の何ものでもない。喩え抗えるだけの角といった武器や逃げ足を持っていたとしても、真正面からやり合えば確実に殺されるのは目に見えている。

 だからこそ、大型種の二匹は、内心はともかく。

 表向きな表情や声に余裕があるのは、戦って負けない自信が表れているせいだろう。

 

  視線を目の前に集中させる。

 トラの腕力に拮抗するように震える、寡黙なホッキョクオオカミは。

 どちらかと言えば大型寄りではあるが、肉食獣では大型種と中型種の中間に位置する。

 つまり、戦えるだけの力を持ちながら、ある程度の機敏さも持ち合わせている。

 相手が完全に意識が散漫になっていたり、油断しているような場面であれば、ホッキョクオオカミも相手を幾らでも倒せる。

 丁度、今がその状況だ。

 

 だが眼前のホッキョクオオカミは、戦うのではなく、相手の攻撃を受ける選択を取った。

 そんな行動を取る利点など、何一つないはずだ。

 

 殺気と怯えが、教室を静かに満たしている。

 沈黙を破ったのは、毎日のように顔色も声色も変えない、ホッキョクオオカミだった。

「僕がこんなことをしている理由を聞いているのかい?それなら、特別、何もない。朝来たら教室が煩ったから。それだけじゃ、足りないかな」

 拍子抜けにも程がある。

 下手したら喧嘩沙汰以上に、教室が中に血肉が飛び散っていたかもしれないのに。

 第一、野蛮な四匹が聞きたいのは。

 「何でガゼルなんかを庇った」だろう。

 的外れも的外れだし、肉片と化したかもしれない当の俺でさえ、答えにすらなっていない。

 本当に訳がわからない。このホッキョクオオカミは。 

 

「ふざけてるのか、てめぇっ」

「いつもよくわからない奴だとは思っていたけど、やっぱり君はおかしいよ。何もかもが」

 トラの拳を堪え続けるホッキョクオオカミの隙を狙わんとばかりに、柴犬とピューマが吠えた。

 それを、最底辺にまで落ちた声が無理やり制止させた。

「こいつ相手に、ムキになるな。話すことも禄にできない奴だ」

 トラが拳を退いて、頭一つ低いホッキョクオオカミと対峙する。彼らの視界に、最早ガゼルの俺など入っていないだろう。

 もう一匹、ハイイロオオカミがトラに並んだ。

「答えになってないよ、ホッキョクオオカミ君。僕たちが、いや僕個人的に聞きたいのは、何で苛立たせた元凶のガゼル君を庇ったのか、だ。君も、アラスカンマラミュート君も同類なんだよ。まさか種族を超えた、同じ思いを持った者同士の仲間意識、なんて根拠のない理屈をこねるつもりはないと思うけど?」

 俺の顔など、簡単に覆い隠して握りつぶせる程大きな手を持つ、トラとハイイロオオカミ。

 その手が、小刻みに震えている。表面に出さないだけで、内心ハラワタが煮えくり返る思いを抱いている証拠にさえ見える。

 

 トラの一撃を受けて、痺れたであろう両腕を「痛てて」と漏らしながら軽く振ったホッキョクオオカミは、相対する四匹とは真逆を行くように。

 白い毛並みの純白さを、どこまでも貫こうとしているかのように、何一つ変わることはなかった。

 

 肉食獣でも、こんなにも美しく見えることも、あるのか。

 

 思って、俺は転瞬の思いを振り払った。

 俺は、何を考えているんだ。

 目の前で繰り広げられるやり取りよりも、自分の中で浮き沈みする思いに振り回されている俺を尻目に。

 ホッキョクオオカミが発した言葉は、いつまでも平坦で。

 そして、達観しているかのようであった。

「流石、トラの一発は重いね。腕が痺れたよ」

 誰かが発するよりも速く、ホッキョクオオカミは続けた。

「不満そうだけど、もう一つ付け足して貰う。こんなことして、楽しいのか?それとも、反発する動物をねじり倒すことで満足する、と言えば良いのか?」

 声色は変わらないのに。

 言い終えたホッキョクオオカミは、これまで見せたことのない程、目を細めて鋭くし。

 鼻面にシワを寄せて。牙を剥き出して、奥歯を軋ませる程噛み締めて。

 喉の奥底から響くまでの唸り声を上げていた。

 

 俺は直感してしまった。

 達観なんて、そんな簡単なことではない。

 このホッキョクオオカミは。

 寡黙で話下手と思わせてきたそれまでとは打って変わって。

 もっと深い、とてつもなく強い想いを持っている。それも、目の前の脅威など跳ね除ける程の、確固たる何かが、彼をそうさせている。

 先程まで暑苦しい連中をあしらってきた、つもりだった俺は。

 今、震えている。

 これまでも同じような目に、何度も遭って。

 その度に痛い目を見て、泣いて。繰り返される度に、いつのまにか泣くのをやめて。

 距離を置いてまで、強くい続けたはずの俺が。

 何も言えないまま、みっともない位、震えている。

 

 「言うじゃねぇか、寡黙野郎。なら本気で来いよ。噛み殺すことくらい、お前だって簡単なんだろう!!」

 ただならぬ雰囲気に、教室中の誰もが飲まれそうになる中。

 それに屈服しかねた柴犬が、トラたちの「よせ!」という声を振り切って、ホッキョクオオカミに牙を突き立てようと飛びかかった。

 草食獣の骨をも簡単に砕く牙が、照明を受けて白く輝く。

「どう言われても、どう思われても。僕は構わない」

 迎え撃ったホッキョクオオカミは。

 柴犬の口元を左の裏拳で軽く小突くことで牙の行き先を失わせ。

 標的を掴む為に伸ばされた左腕の元である肩を右手で抑えながら、柴犬の足を払い。

 雲のような、流れる挙動のまま、宙に浮いた柴犬の左上腕を手に取って。

 決して激しくはないものの、柴犬を地面に押さえつけていた。

 「仕掛けたのは君だから、正当防衛とさせてもらうよ」

 向かってきた相手を完全に抑え込んだホッキョクオオカミは。

 普段では見せないような、獰猛な笑みの半弧を、口元に浮かべていた。

 

 一瞬の間に起きた出来事を目の当たりにして。

 ホッとするよりも、俺は。

 何もできもしないで、何も言えないでいたのに。

 

 このホッキョクオオカミも、野性的で戦闘特化した種族なんだ。

 普段黙っているだけで、結局は、絡んできた奴らと同じじゃないか。

 

 そんな落胆に似た感情だけが湧き上がっていた。

 同時に。

 俺は、何がしたいんだ。

 ガゼルの俺が、こんな下らないことに付き合う必要なんてない。

 

 ない、のに。

 

  

「クソ、離せこの野郎!」

「下手すると肩や肘が痛むから、そのまま大人しくしてて」

「ふざける、なっ!イタタタっ!!!」

「いいから、動かないで」

 地面に杭打ちされたように暴れる柴犬が、ホッキョクオオカミに屈している。

 肉食獣の中型と準大型。考えるまでもなく、両者の力の差は目に見えていた。

 

 それでも尚。

 目の前のホッキョクオオカミは、自分の力に溺れるような表情を見せることなく。

 相手を打ち負かした、なんて単純な優位性に浸るような様子すら見せない。

 

 俺に絡んできたトラたちが目を見開いて驚いている位なのだから。

 身体的強さも膂力も及ばない俺には、異常にしか見えなかった。

 

 いや、違う。それは僻んだ感情を持って始めて生まれる見え方だ。

 このホッキョクオオカミは。

 寡黙の果てに何を考えているのかわからない、なんて疑念は、恐らく詰まらないものになる。

 多分、恐らく。

 もっと強くて、誰にも曲げられないような何かを持っている。

 錯覚かもしれない。でも。

 草食獣として、ガゼルとしての俺には、そう見えかけていた。

 

 

 俺のそんな思いなど尻目に。

 トラも、ピューマも、ハイイロオオカミも。

 仲間意識なのかしらないが、最早隠すことをやめたように、各々が武器とする牙や爪を光らせ、威嚇するかのように唸り声を上げていた。

 

 幾多の脅威を、一匹で受けるホッキョクオオカミは。

 覇気、とでも言えばいいのか、俺にはわからないが。

 両腕で柴犬を抑えつけながら、それでも他の肉食獣に屈しない冷徹な表情を終始浮かべ続けていた。

 

「そんなに、僕が憎くて……君たちには、邪魔かい?君たちがその気なら、幾らでも相手になるよ。時間と体力が無駄になりそうだから、僕は願い下げたいところだけど、さ」

 

 最初は、弱者とされる草食獣でガゼルの俺が一方的に痛めつけられそうになっていた。

 それが今、たった一匹の、変わり者のホッキョクオオカミによって、覆されそうになっている。

【人生・憧憬】憧れ 〜自分や周りから、得られなかったもの〜

 新型肺炎の爆発的感染によって、様々な情報が錯綜しています。

 私が通う会社でも、本日より集合型研修や会議の中止が決定されました。

 

 当たり前だった日常が、いとも簡単に瓦解していく。

 それが怖い、というよりも。

 「当たり前」という言葉で塗り固められたことなど、切っ掛け一つで崩れ去ってしまう脆さ。

 誰もが信じて疑わなかったものが容易に壊れてしまうことを目の当たりにして、「そんなものか……」などと悲観するようにブログを綴っている、白兎です。

 

 

 皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 唐突ですが、皆さんは憧れるものはありますでしょうか。

 スポーツ会や芸能界で活躍する人たち。聞いているだけで時を忘れさせてくれるアーティストたち。絵画で思いを伝えられる画家や絵師たち。

 人だけでなく、物にも憧れを抱く方もいらっしゃるかと思います。

 とても手が出せない程のスーパーカー、高級な腕時計やバッグといった品々。

 もしくは、何億円という想像も付かないほどのお金。

 

 憧れ、という言葉だけでも。

 人の数程、その対象は存在しているかと思います。

 

 私にも、少々特殊になりますが、憧れるものはあります。

 

 

 そうやって考えていく内に。

 私は人が憧れるものには、共通点のようなものがあるのではないか、と考え始めて参りました。

 

 今回は、憧れることや憧れるものについて、綴っていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 簡単に手に入らない。だから「憧れる」

 

 

 

 憧れるもの。

 それは他の動物では持ち得ないとされる、理性や価値観を持つ人間だからこそ持つ考えや思いであると、私は考えています。

 では、どういったものに対して人は憧れを抱くのか。

 

 私なりの答えとしては。

 憧れを抱く人が持ち得ることができなかった才能やカリスマ性、外見的美形といった、努力だけでは獲得できないものを持つ人に、憧れる。

 物の場合は、お金だけでなく自身の環境や立場から見て、どう足掻いても手に入れることはほぼ不可能に近い物に、憧れる。

 

 そういった思いの先にあるものは。

 

 所有欲ではないかと、個人的に思っています。

 

 人の才能や美形であっても、果てしなく高額なものであっても。

 手に入れられないことは百も承知であっても、諦めたり目を逸らすことができないもの。

 

 簡単には手に入れることができない。だからこそ、憧れという感情や思いが芽生え、追い求めるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 存在しないものに、憧れることもある

 

 

 現実的な人や物に憧れを抱く一方で。

 

 「この世に存在しないもの」に憧れを抱く。

 そういうものもあるではないか、と思い始めています。

 

 例えば、ゲームや漫画、アニメの主人公や登場人物。

 無類の強さを誇っていたり、その世界で全てを魅了する美形、容姿を持っていたり。

 もしくは弱々しいキャラクター性故、愛でたい、守ってあげたいという感情が迸ったり。

 

 架空の存在に憧れを求めることは、気持ちが悪いことでも忌避されることでもないと、私は思っています。

 何故なら。私がその一人だからです。

 

 

 私は、自分だけでなく、周りに。

 特に家族に求めても、得られなかったことが数多くあります。

 

 特段、父親という、子供から見て男性というものがどのような存在で、どんな立場でいるものか。

 時には厳格で、時には優しく、世の中を知らない子供を導く存在であると思っていた親というものを。

 

 私は、反面教師という側面以外で。実の父親から学ぶことは、何一つありませんでした。

 

 現実で見て、知って、育って。

 私はヒトという種族の男性像、父親的存在を学ぶことができませんでした。

 

 それでも尚、自分という存在に反映することができなかったものを、補完するような形で。

 私はケモノという存在に、自分の理想とする男性像を思い描き、憧れすらもつ存在となっています。

 

 動物が直立歩行して、人の言の葉を使いこなす、架空の存在。

 単に外見の美しさや、ヒトにはない毛並みや獰猛さに惹かれる。

 いわゆる「萌え」としての感情も、確かにあります。

 

 それ以上に。

 

 

 憧れというものは、自分や周りから得られなかったものを自己補完する形でもなり得ると思うと共に、信じています。

 

 

 

 

 

 

 

 憧れるものが、もし手に入ってしまったら

 

 

 話を戻します。

 現実に存在する、人や物。

 或いは現存するはずがない 架空の存在。

 

 これらが、もし仮に手に入ってしまうようなことがあれば、皆さんはどうなるとお考えになるでしょうか。

 

 私の中での「憧れ」の定義は、努力やお金といったものでは簡単には手にすることのできない存在や物であると考えています。

 

 どこかで聞いた話ですが、「夢」と「希望」の違いに似通っているかもしれません。

 これは別記事として上げていければと考えていますが、努力や生き方の改善次第では手に入るかもしれないものが「希望」であるとするなら。

 どれだけ頑張ろうとも、模倣で誤魔化そとうとしても、容易には手にすることはできないものが「夢」であるとされているそうです。

 

 憧れを抱く物やが、状況によっては簡単に手に入ってしまうであるならば。

 それは、本当に憧れるものなのでしょうか。

 

 

 

 

 逆説的に申し上げるとするならば。

 憧れるものを追い求めて、尊敬や好意に似た感情を覚えながら。

 それを追いかけることが、ヒトの生きる糧になり得るかもしれません。

 もしくは自分や周りから得られずに悶々とした思いや感情を、疑念を抱いて始めて。

 その答えを、憧れる存在を見つけることによって、少しずつ見出だせるようになれるのかもしれない、と思っています。

 

 

 

 

 憧れ、憧憬。それがあるからこそ、生きていられるのかもしれない

 

 

 

 現実を生きること。

 会社で働いて、お金を稼いで、相応の生活を送る。

 現代に生きる人間として、当たり前のことかもしれません。

 

 

 ですが私は少なくとも、そういった生活に満足して順応することができない人間です。

 

 手に入れたいと思うものを、いつか手中に収めた時を想像したり。

 憧れる架空の存在、それが手に入らないことがわかっているとしても。

 

 私は、仕事はそれなりにこなしながら。

 憧れを求め続けていきたいと願いながら、追い求め続けたいとさえ想ってています。

 

 

 言い換えられるとするならば。

 

 憧れという存在があることで。

 下手にそれを妬んだりしない限りは。

 生きる為の、時には目標にすらなるのではないか。

 私はそう感じるようになりました。

 

 一生手に入れることができなくても、構わない。

 でも、いつか手中に収められる日が来ることを切に願う。

 

 相反し、葛藤のようなものにも見える思いも。

 

 惰性ではなく、自分の憧れが指標や目標となって、人生を歩むものになると感じると共に。

 

 喩え過去や現在において得られなかったものを補う存在として。

 表向きに出すことはないかもしれませんが。

 各々が憧れるものを抱き続けることも、大切なことなのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

  

 

 

 

 

 

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【人間関係】適度な距離感 ~測り間違えて、捨てて、失い続けてきた~

 ブログを書き始め、早くも2ヶ月が経ちました。

 

 書くからには毎日書かないと。

 そういった力みのようなものを持って始めた訳ではありません。

 寧ろ逆に、持ったことを沢山書いて行きたいな、と意気込んでいました。

 

 使命感ではなく、自分の「書きたい」という気持ちに、素直になりたい。

 そう思って久しく、現在は3日に1記事は上げたいな、という気持ちに落ち着きました。

 更新速度は遅めではありますが、自分にとって内容の濃い記事を上げていきたい。

 何よりも、私の記事を読んでくださった方が共感していただけるようなブログを目指していることは、今も変わりません。

  強いて言えば、日記のようにならないように。

 

 誰かの為に、私の思いが届けばという願望を抱いています。

 そのような思いから、最近は文章の書き方だけでなく、文字装飾も少しずつ変わり始めている、白兎です。

 

 

 皆さん、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 これまで本ブログでも多く取り上げてきた、人間関係。

 

 仕事であれば、最悪の場合は離職に繋がる可能性さえある。

 家庭では、離散や家庭内別居に至りかねない。

 恋仲であったとしても、離別、破局に向かってしまいかもしれない。

 

 ならばより良好な関係を築く努力をすれば良い、というアドバイスでだけでは簡単に築いたり、解決できないもの。

 

 自分を理解するだけでも困難なのに、人を理解して受け入れたり受け入れられることは、途方もなく難しいことだと思っています。

 そんな人間関係という難しい事柄に対してだけでなく。

 私自身が経験してきた、もう一つ大切なことを、今回は綴っていきたいと思います。

 

 

 自分と人との、距離感。

 

 

 皆さんは、考えたことはありますでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 一度築けた関係の後の、人との距離感

 

 

 

 自分以外の、誰かと付き合うこと。

 好んで自分以外の他者と陰険であったり、険悪な雰囲気で付き合いたいとは、誰しも望んではいないと思っています。

 

 何でもかんでもとはまで行かなくても、ある程度言いたいことを言い合える。

 多少なりとも気を遣ったり上下関係を意識することはあっても、同じ場にいても然程苦にならない間柄でいられる。

 

 職場であっても、家庭であっても、或いは恋人同士であっても。

 どのような間柄であったとしても、人間関係というものは切ってもきれないものではないかと思います。

 

 

 人生を、或いは自分の生き様と言い換えては誇張的かもしれません。

 それくらい、良好な人間関係を築くことは大切であると思っています。

 

 

 その為に必要なこと。

 

 例えば、自分を多少抑えてでも、相手を尊重することであったり。

 もしくは、自分という存在の全てを曝け出して、それでも受け入れてくれる人を大切にしようとしたり。

 中間的立場を取るように、自分をある程度出しながら、相手を崇拝する程でなくても、相手を許容する姿勢を取ったり。

 

 そういったことをしてでも尚「この人とは合わない」と自分が感じたり、相手が下手にしゃしゃり出てくるのであれば、その人との人間関係を保つことは実質的に、生理的に不可能であると思います。

 

 少なくとも今の私は、自分を曲げてまで歪んだ人間関係を築きたいとは思いません。

 

 ならば。

 人間関係を保つ為に、私は更に。

 もっと深いところに存在するとものを尊重して、認め合うことが良好な人間関係を育む為に必要であると信じています。

 

 喩え一瞬でも、「この人となら上手くやっていけるかも」「この人との関係を、大切にしていきたい」

 そう思った時に、始めて見えてくるもの。

 それが自分と人との距離感であると、私は思っています。

 

 

 固執するように、距離感というものを書き記すのには、理由があります。

 

 

 

 

 意識するのは難しい、人との適度な距離感

 

 

 

 

 会社で気の合う同僚だけでなく、立場の違う上司や後輩。冗談を言い合いながらも、仕事をこなしていけるような関係。

 同じ趣味を持つ者同士が集まる中で、趣味を超えて仲良くなって、以降も交流していける仲になる。

 

 この二つには、単に馬が合う、或いは仲が良くなるというだけでは成り立たないものがあります。

 

 年齢や立場を超えても、それでいて、適切な距離感を保てる間柄。

 一見気の置けないように見えて、時には自分を抑える。

 でも言いたいことがあった時は、臆せず伝えられる。

 相手も同じように、言われることを享受することもあれば、場合によっては意見する。

 そうでありながら、互いに尊重し合える関係。

 

 

 それが私が信じる、適度な距離感を保てる人たちとの良好な関係です。

 

 

 一見、回りくどくて面倒な考え方かもしれません。

 

 ですが、意識しなければ保ち続けられない、人との距離感。

 

 今でこそ最も重要視して、実践しようと努力するようになりましたが。

 かつての私はそれを誤るあまりに、沢山のことを、人を失ってきました。

 

 

 

 距離感を誤って、失い続けた

 

 

 引っ込み思案で積極性に欠ける私は。

 特に人間関係が一段と難しくなる中学生時代は、どうしても他人との……特に同世代の中では、特に交友関係を築くことを苦手としてきました。

 周りが知らない間に、友人関係を確実にしていく中で。

 

 私は、いつも「友達すら作れない自分なんて」と劣等感を常に抱いていました。

 

 

 そんな時に。

 部活の仲間や、共有できる趣味をできる同級生を見つける度に。

 

 

 私は、「仲良くなった」という錯覚のようなものを盾にするように。

 自分という存在ばかりを、あたかも売るように押し付けてきました。

 

 関係が深まれば深まる程その思いは突き進み、挙げ句に「自分はこういう人間なんだ!自分を理解して受け入れて!」と相手を蔑ろにしたまま、愚直なまでに自分というものを誇示してきました。

 

 

 そんな自分勝手で、人と人との境界線を無理やりこじ開けようとしてくる人間を。

 

 

 

 皆さんは、受け入れられるでしょうか。

 

 

 

 

 

 人との距離感を見失った末路

 

 

 

 結果は、お察しかと思いますが。

 そんな身勝手で、人の考え方や価値観すら無視するようにしてきた私は。

 有り体に言えば「ウザったい」。もしくは「何様だ」と思われて。

 最後は、そんな私を捨て去って、もっとわかりあえる人と仲を深めていくようになりました。

 

 当たり前、かもしれません。

 

 仲良くなれるかもしれない。

 否。喩え一瞬でも「仲良くなれるかもしれない」という、仮定の域を過ぎないにも拘らず、もっと仲良くなりたいという一心で突っ込んでくる人間なんて。

 

 自分勝手で。都合のいい人間と見られて。

 気持ち悪がわれる。

 

 相手は元より、自分のそういった姿勢は。

 より良い人間関係を保ちたい、などという私は。

 不要、邪魔で。寧ろ邪険にされて然りでした。

 

 

 人それぞれであっても、誰もが「人との距離を保とうとする距離」という境界線。

 人によって異なる「ここまでなら許せる」という範疇を遥かに超えたものは、その人が持つ自我を守ろうとする為に、排除されて然りと思っています。

 

 そうやって鑑みれば。

 理性を超えた、どのような形であっても「誰かと繋がっていたい」という私の勝手な思い、そして「歩み寄りたい」という偽りの言葉で塗り固められた本心は、否定されて当然でした。

 

 

 それをあろうことか。

 

 見限られ、飽きられて、毛嫌いされていく中で。

 「『歩み寄ろう』としただけなのに……」

 と、勘違いするかのように絶望していって。

 「それならもう、誰も信じない」

 なんて、格好つけるようにして他人を拒むようになって。

 最後は。

 「独りで、生きてやる。誰も、近寄るな」

 と、意気がるように。

 否定された「事実だけ」を押し出すようにして、生きるようになっていました。

 

 

 自分が、交友関係という言葉を後ろ盾にして押し付けてきた行動。

 それを結果だけ見て、勝手に「見捨てられた」と勘違いするかのようにして。

 自分以外の誰かとの、適度な距離感を計れなかった為に、私は全てを捨てて、失うことだけを繰り返してきました。

 

 

 今更願ったところで、叶うことはありませんが。

  あの時少しでも、人のこと想って、上手く距離感を維持することができたのなら。

 

 反省するかのように思ったところで。

 人間関係は、後から考えて、悔いても変わらない。

 今はそれだけを、苦い思いと共に噛み締めています。

 

 

 

 

 

 適度な距離感を保つ難しさと尊さ

 

 

 

 そんな思いや経験を経て、尚。

 私は、学習し活かすことができない人間です。

 

 車とカメラという趣味で知り合って。

 今も仲良くさせていただいている、友である「たーぼぅ」さんに。

 

 衝動に刈られるように、「私を理解してください!」といった声を投げつけてしまうことがあります。

 

 ですが、親友だからといって、何を言っても言い訳ではない。

 頭ではわかっているはずなのに。思いが、感情が沸き立って、暴走してしまうことがあります。

 

 私は私の考えや価値観を持っていて、それが全てではないと、ブログで綴ってきて。

 心でも整理がついた、はずなのに。

 「私という存在を、受け止めてほしい」という思いが、先立ってしまいます。

 

 SNSで繋げっているから、という現実に囚われて、私はいつまでもかわることができずにいます。

 

 

 ですが、いつの日か。

 

 過去を振り切って、感情を汲み取って尚、理性で自分と人との距離感を上手くとっていきたい。

 

 

 近すぎず、遠からず。

 

 

 「適度な距離感」を、未だ上手く計れない自分を罵るようにしながら。

 

 いつの日か、友だけでなく、誰に対しても適切な距離感を持って接し、関係を育んでいきたいと、切に願っています。

 

 

 

 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

  

 

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【HSP】過敏さを盾にする ~言い訳には、したくない~

  三寒四温、という言葉があります。

 本来は中国大陸や朝鮮半島で起こる、寒い人暖かい日が7日間ごとに繰り返される気候の事を指し、それが日本にも渡ってきたと言われています。

 日本でそのようなことは稀ではありますが、2月の終わりから3月に使われる、冬の言葉としてすっかり定着しました。

 冬なのに妙に暖かくなったかと思ったたら、急に寒い日に戻る。

 似たような言葉では、寒の戻りというものがあります。

 

 そういった春と冬を行ったり来たりする不安定さを乗り越えて、ようやく春を迎えるとされています。

 今週はまた寒い日が続く予報となっておりますが、気温差による体調の崩れに気を付きながら、暖かい日々の訪れを待ち望んでいる、白兎です。

 

 皆様、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 

 これまで本ブログでは、HSPに関する記事を多く取り上げて参りました。

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

 

 改めて、私と同じように生きることに対する違和感や生き辛さを感じていらっしゃる方が沢山いらっしゃると思うと共に。

 自分だけでは、なかった。

 そう共感し合えるような記事を上げられたことを、勝手ながら喜ばしく思うとともに、感謝しております。

 

 

 ですがやはり、現実でそういったことを表現し、理解を求めることはとても難しいと私は思っています。

 

 

 今回は、そんな思いや経験から。

 個々人で差のあるHSPという性質を何気なくとも把握して。

 その上で周りと付き合っていく為に、私なりに実践してきたことについて、綴っていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 HSPという言葉だけでも、無限と言える情報が転がる現代

 

 

 今となっては情報の宝庫と化した、インターネットやSNS。

 例えば「HSP」というキーワードを元にして検索を掛ければ、一般的視点から見た「HSP」を記述したものや、実際にHSPを自認されている方の経験談。

 それだけでなく、「HSP」という気質を持つか否かを簡単に診断できるものや、どうすれば世の中を上手く渡っていけるかという助言を綴っているサイトまであります。

 

 「HSP」というものを知りたい。或いは自分が「HSP」なのかもしれないという思いから検索を試みる現実よりも、それ以上の数多の情報が先走っているとさえ感じます。

 

 あらゆる情報が錯綜する中で、私が思うことは、唯一つです。

 それは「自分が本当に知りたいものは何であるか」を見極めることであることです。

 

 私の場合を申し上げますと。

 昔から刺激に、特に「音」に敏感で。

 それ以外の五感や、本来あり得ないとさえ言われる「第六感」とも呼べる、周りの空気や雰囲気を読み取り感じ取る。

 人よりも多くのことを感じる敏感さを持っているが為に、周囲の、特に「一般的」と呼ばれる生き方に対して違和感を覚えたり、生き辛さを感じたりしてきました。

 

 現実で私が感じるものを比べ、情報の海であるインターネットから仕入れた知識や考えを取り入れた「つもり」で対処することは、不可能でした。

 

 誰かが必死に訴えかけるように綴った言葉や文字の羅列。それが如何に素晴らしいものであったとしても。

 私の経験上、少しでも自らに落とし込むことができなければ、何の意味も成しませんでした。

 自分以外の誰かが発信する情報は、助けになったり参考になることはあっても、全部が全部正しくて、全くその通りにしても救われることはありません。

 

 

 

 

 私が考えるHSP

 

 

 

 とは言え、インターネット上の情報は全く役に立たない訳では、決して申し上げません。

 

 飽く迄調べたことに対することの「切っ掛け」とする。

 もしくは数多くの情報から「これは自分に当てはまる」事柄を見つけ出して。

 拾い上げていって、自分なりの考えとして構築する材料にする為には、貴重なものとなると思っています。

 

 私もその一人で、「HSP」というものを調べに調べていって。

 「世間的に定義される」というものは、敢えて排除して。

 自分が納得し、腑に落ちたものを取り行ってきました。

 

 本ブログでもHSPのというものの「一応の」定義を述べましたが、実際の私は然程重視していません。

 

 何故なら、定義に当てはまろうがそうでなかろうが、現実で生き辛いと感じ苦しんでいる自分がいることに変わりはないこと。

 それを下手に一般論を当てはめようとして「そうは言われても、何か違う気がする」と少しでも思うのであれば。

 

 多少ズレていたって、少しでも当てはまるのなら、参考程度に取り入れても良いんじゃないかな。

 

 迷いに迷って、自分を疑いながらも。

 そう思うようになって、私は自分なりの「HSP」というものを定義を見出しました。

 

 HSPは、人の持つ五感の内どれかから、或いは複数からの刺激に敏感で。

 加えて第六感的な「場の空気や雰囲気を無意識的に読み取ってしまう」故に、深く考えて処理以前に、頭が混乱して怖じ気付いてしまう。

 それが、生き辛さに繋がっている。

 

 

 正解や間違いといった正否ではなく。

 自分が喩え少しであっても納得できて、受け入れられるように、如何に咀嚼して反芻して、自分なりの指標とできるか。

 

 たった一つの「HSP」という言葉であっても、解釈や受け入れ方は沢山ある中で、私はそうやって納得を重ねに重ねて、ようやく自分なりの答えを見つけることができました。

 

 

 しかし、悩みに悩んで。苦しんで導き出した答えは。

 現実には必ずしも通用はしませんでした。

 

 

 

 

 HSPと訴えても、理解されることは少ない

 

 

 

 苦労を重ねて、「HSP」というものを自分なりに解釈して、理解して上で。

 実際にそれを現実世界で訴えとしたら……どうなるでしょうか。

 

 先程の私の例を用いるとするならば、このような訴え方になるかと思います。

「私は五感からの、特に耳から入ってくる情報に反応し過ぎるんです。それに会議のような重い空気って、苦手です。もう、頭がパニックになってしまって……辛いんです」

 

 

 もしそのようにして誰かに申されたら、貴方はその人を理解、もしくは許容することはできるでしょうか。

 

 

 当事者はともかく、精神科医やカウンセラーでも、HSPという性質を理解すること、それだけに留まらず診断することはほぼ不可能と言われています。

 

 身体の病気とは違って、目に見えた外見的変化や血液検査等から導き出される数値として計れるようなものではないだけななく。

 「明らかに意気消沈していて、集中力を欠いていて些細なミスが増えた」だけでなく。

 「声掛け等による情動反応が希薄であったり、どこかで「会社へ行きたくない」「死にたい」という危険信号を発している」という、私も患っている精神疾患の兆候が見られる。

 そういった指標では、決して判断したり決めつけたりすることはできません。

 

 

 HSPは、病気ではありません。

 生まれて持ち得た、先天的気質です。

 当人でさえ気付くことも難しい中、非HSPが圧倒的多数を占める現代でHSPの生き辛さや苦しさを叫んで、喚いて。理解や助けを求めても。

 

 限界があり、無理にも程があります。

 下手をすれば、「こいつはおかしい」と異端扱いされることもあり得ます。

 

 

 私もHSPというものを知り、最初は打ち明けることもできずに、「こんな気質なんか持たずに、普通の人として生きられれば」と悲嘆し、時には絶望すらしました。

 

 

 

 どうして、わかってもらえないんだろう。

 HSPというものを自覚して、悩んで苦しんで。時には、寝床について枕で涙することさえありました。

 

 

 でも、逆に言えば。

 始めから無条件で「わかってもらいたい」一心で突撃するような姿勢を取られれば、誰しも回避するのが普通なのではないかと思い直し始めました。

 極端な言い方をすれば、目の前にたまたま行き合った人に「私を受け入れて!」といきなりハグを求められるようなものです。

 嫌ですよね、そんなの。私も嫌です。

 

 そんな変質者を見る目で見られないようにするなら。

 申し出る方法や出方さえ変えられれば、周りに自分の気質を伝えられるかもしれないと思うようにない始めて。

 HSPという気質を、敏感さを盾にして、明らかに周りの刺激から逃げるように言い訳しなければ、何とかなるかもしれないと、いつしか思い始めていました。

 

 寧ろ、「個性」という形で自分を示すことができるかもしれないと薄々感じていました。

 

 

 

 HSPの性質を、伝える言葉や言い回しを変えれば

 

 

 

 例えば、私の場合になりますが。

 周囲の音や声が、どうしても気になって仕方がなくなります。

 

 現実では、お酒の勢いや場の空気に任せて声色が大きくなったり、四方八方から言葉が飛び交う会社の飲み会が、私にとってとても苦手なものでした。

 入社したての頃は、「新入社員だし、若手だし……」と半ば我慢する形で参加しておりましたが。

 

 上層部のお偉い様が来るような、接待的な飲みの場を筆頭として。

 月一で開催される担当内の飲み会でさえ、「お酒を飲んで楽しむ」以上に、上司や先輩たちの「パチンコ屋レベルの騒音」とも言える言葉のやり取り、盛り上がりに。

 次第に辟易していくと同時に、我慢では済まされない辛さを募らせ始めていました。

 

 そして、ある時。

 

 飲み会に参加しない私に、とある先輩が「なんだ、出ないのか?」と首を傾げてきた時でした。

 

 「あ、その……すみません。魚介類が食べられないのと、賑やかな雰囲気がちょっと苦手で。飲み会が終わった後、疲れてしまうので、今回は欠席しようって思って

 

  HSPの気質を直接的ではなく、「耳から入ってくる情報に錯乱する」ということを関節的に伝えた結果。

 

 「そうか、まあ無理は良くないからな。また今度な」

 

 一瞬残念そうな顔を見たような気もしましたが。

 そうやって返してくれる人がいることを。

 自分を削るようにして我慢するようなことをしなくても、わかってくれる人も、空気があることを知りました。

 

 

 処世術、と言い換えられるかもしれません。

 極論になりますが、参加しなければ死に直結するような場でもなければ。

 自分という対価を払ってまで、周りに合わせる必要は無いことを自覚できたと共に。

 

 HSPを、刺激に対する過敏さを直接的に盾として。

 直接的な言い訳としたくないと、思えるようにすらなりました。

 

  

 

 

 

 生まれ持ったHSPを、「そういう人間もいる」と言える日が来ることを願って

 

 

 

 

 薄々感じつつも、中々言えずに悩んで、苦しむ。

 HSPという、望んでもいないのに得てしまったもの。

 

 文章や言葉として書くには、あまりにも簡単なことなのかもしれません。

 ですが、実際はインターネット上に多数載っている記事以上に、辛いものです。

 私もできるのであれば、HSPなんて気質。捨て去りたいと何度も願っていました。

 

 ですが。持ち得てしまったものを捨て去ることは、不可能です。

 仮にできるとするなら、それは自分という存在を否定することに繋がります。

 

 なら、できることは少ないながらも。

 刺激に過敏で生きることさえ辛いことを自分なりに解釈した上で。

 直接的ではなく、間接的に周りに伝えること。

 HSPを自覚し、自認する私たちが今できることは、そうやって上手く立ち回ることではないでしょうか。

 

 私自身は、このような卑下するようなやり方が全てではないと思っています。

 

 いつの日か、胸を張って。

 過敏さを直接的な言い訳にするよりも、本当に苦手とすることをきちんと話して。

 そうではない人たちと相互的に理解し合って、互いを尊重し合える日が来ることを願っています。

 

 頭ごなしに、そんなことは理想郷。

 そんなもの不可能だと言われようとも。

 

 協調や謙遜を良しとしてきた、日本の文化。それが、全て正しい訳ではないことを。

 少なくとも、それに馴染めず悩み生き辛さを感じている人も少なからずいることを知って貰える時が来る日を、私は目指したいと思うと共に、叶うと信じています。

 

 

 

 

 

 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

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【価値観・生き方】マイペース ~自分の歩調で~

 2月中旬というのに、最低気温が氷点下を下回ることなく、最高気温は15℃超えと異常気象。

 雪も氷も消えてしまった、真冬なのに小春日和な大地。

 

 穏やかな気候が、このまま続いてほしいと願う傍らで。

 時に厳しく、険しい季節の変化も、また感じていたい、白兎です。

 

 

 皆様、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 突然のお知らせとなりますが、過去投稿した記事のタイトルに前書きを追加することにいたしました。

 変に遠回しな言い方を好む故、タイトルを見ただけでは「何を伝えたいのか」がわかりにくいと私自身が感じ始めていましたので、各記事の内容に沿ったカテゴリーのようなものを付けさせていただきました。

 

 過去記事を修正するようなこととなり、申し訳ございません。

 

 今後はこのスタイルで行きたいと思いますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。

 

 

 さて、今回はマイペースというものについて綴っていければと思っています。

 

 

 マイペースと聞くと、私はどうしても「後ろ指を指される」ような、ネガティブな印象として捉えがちです。

 「あいつはいつもマイペースだよ」「どんな時でも本当、マイペースだよな」といった、そんな感覚。

 

 

 皆様は、どうお考えになるでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マイペースの定義

 

 

 

 マイペース。

 わかっているつもりであっても、意外と真の意味を知らないことなのかもしれません。

 

 そこで、実際に調べて、咀嚼し、私なりの解釈を述べて参ります。

 

 日本語に訳すと、「自分の『歩調』や『物事の進め方の速度』」となるようです。

 より深堀りすると、その人それぞれが歩いたり、進んだりするといった『行動』の速度である。

 別の意味では、例えば仕事などの「物事の進め具合や進行度」という意味を持っています。

 

 

 単にマイペースと言うのであれば。

 当人以外の誰からも批評できない、その人が生きる上で様々なことに対する、一定の速度。

 調べてみて、改めてそのような印象を受けるに至りました。

 

 そこで、現実で使われがちなマイペースと比較した時。

 どうなるのでしょうか。

 

 

 

 

 良い意味では使われるだろうか?

 

 

 

 

 個人的見解ではあることは、ご承知おき願えればと思います。

 誰かに対してマイペースという言葉が使われる時。

 それは多くの場合、悪い意味で放たれていると感じています。

 

 周りの状況や空気を読むようなことをせず、ひたすら自分のペースを貫き通そうとする姿勢。

 学校なら「個性」と認められるかもしれませんが、社会人として見た時……。

 私には、良い意味で使われることは極わずかなのではないかと、思えてなりません。

 

 実際に、同僚や後輩で、自分のペースを絶対に崩そうとしない者がおりました。

 

 周りがどれだけ忙しそうにしていても、期限が迫り焦っているようであっても。

 彼らは、涼し気な顔を変えないまま、仕事を淡々と続けていました。

 焦る仕草も見せず、目の前の業務を黙々と遂行していくその姿は。

 

 せかせかしがちな癖に、かんたんに流されてしまう私とは、正反対を突き進んでいるかのようでした。

 

 

 

 マイペースとは程遠かった私

 

 

 

 片や私は、かなりせっかちな性格です。それでいて、簡単に周囲の空気や雰囲気によって、自分のペースを崩されてしまいます。

 そんな私から見て、自らの姿勢を曲げない彼らに対して。

 

 どうしたら、そんなに冷静でいられるの?

 間に合わなそうに思えるのに、いつも確実に仕事を完遂できるのは、どうしてなんだろう?

 

 怒りや憤り以前に。

 どうして?という疑念だけが、果てしなく続くと共に。

 簡単に流されてしまう私には、どうすれば自分というものを、ペースを保っていられるのだろうか。

 

 時には、羨んでいたのかもしれません。

 

 特に、若気の至りという言葉で纏めるには乱暴かもしれませんが。

 十代の頃の私は、尚更そう思ってなりませんでした。

 

 

 

 

 

 自分のペースを。自分の生き方を護るために

 

 

 

 しかし、今考えれば。

 マイペースという概念は。

 その人が生きる姿勢を、具現化させて行動に移していたことに過ぎない、と思うようになりました。

 

  事実、私も。

 その一人であることに、いつの間にか自覚するようになっておりました。

 

 例えば、単純に車を運転している時。

 法定速度や規制速度を守りながら、それでもゆっくりと走りたくなる時があります。

 相棒という名の愛車と共に、どこまでも続く道をひらすら走り続ける。

 慣れ親しんだエンジン音、加速度、ドア越しに伝わる外の音。或いは振動という物理的感覚。

 そんなものを感じながら、少しでも、いつまでも共に走り続けたいという思いが、無性に込み上げて。

 混雑する日中の国道はともかくとしても、宵に浸るようにハンドルを握り続ける時があります。

 

 そんな時、前方で明らかに規制速度を下回る速度で走る車に出くわしたり。

 逆に後続車が、こちらが急ブレーキを踏んだら衝突される程にまで迫られたりした際には。

 

 前方車がどこかへ行き去ることを期待して、特別用事はなくても、近くのコンビニに寄って一息つく。

 もしくは、ウインカーを出して自車を端に寄せることで、後続車に先へ行って貰う。

 

 時折、謝意を示す為の「サンキューハザード」を見せられた時は、無性に苛立つこともあったりしますが。

 

 

 遅い車にベッタリ張り付いてイライラしたり、急ごうとする後続車に一々腹を立てて意固地になるよりも。

 たった少しの「ひと手間」を踏んだとしても、自分のペースを守れるのなら。

 その方が健全的であることを、知らぬ間に学んで実践していました。

 

 他人のペースに合わせて、自分を崩される位なら、「ひと手間」と自ら行うことは然程苦ではありませんでした。

 

 こうして綴っている今となっては、そんな術をいつ身に着けたのだろう、と本気で思い出せなずにいることが不思議な位です。

 

 

 そう思えば思うほど。

 マイペースというものは、人からどうこう言われても簡単に変えたり、他人に合わせることの方が難しいものだと感じるようになり、今に至っています。

 

 

 

 

 

 自分の歩調で生きる

 

 

 

 

 もともとせっかちであるが為に、私はかつて他人の歩調に合わせること苛立ったり、もどかしさを覚えてきました。

 

 物事の進行速度だけでなく、喩え歩くスピードさえ違ってくる、マイペースと呼称されるもの。

 言葉にしてしまえば簡単に解釈され、多くの場合は悪い意味に捉えられがちなものです。

 

 ですが、もし。

 

 日常を生きる上で必要な行動に対するペースを、誰かに指摘されたり批評されたら嫌な気分になるのではないか。

 そう思うのは私だけでしょうか。

 

 これまで色々と綴ってはきたものの。

 私も、自分のペースに対して文句を言われたり物理的に干渉されるようなことがあれば、間違いなく反抗すると思います。

 ……自分勝手で我儘、と言われれば、反論の余地もありませんが。

 

 でも、一度きりの人生。

 その上で生まれ持って培ってきた、自分の生きる歩調。

 

 マイペースというもの崩すことなく、貫き通せることは、とても素晴らしいと思うと共に、失ってはならないものではないかと思えてなりません。

 特段、生産性やら効率性を求められる現代に置いては、尚の事。

 マイペースというものは、世間的に見て矯正されたり非難されることも、時にはあるかもしれません。

 

 

 こんなご時世だからこそ、必要なのかもしれないと、私は思っています。

 

 自分だけの、マイペース。

 かつては蔑ろにしてきたことを、これからは少しでも。

 いつかは譲れない位に大事なものにできるよう、日々を過ごして行きたいと思います。

 

 

 

 皆様もどうか、他の誰かに乗せられたり狂わされるようなことなく。

 ご自身のペースを、大切にしてください。

 

 

 

 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

 

 

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【車・無意識】無意識の恐怖 ~路上講習にて~

 帰りの電車内。

 旅行客や出張帰りなのか、自由席に座るのがやっとという混雑具合でした。

 そんな折、たまたま隣に乗りあった方が、唐揚げのお土産を持っていました。

 
 その匂いを嗅いで、無性に「からあげクン」が食べたくなった、白兎です。

 

 皆様、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 一年ほど前になりますでしょうか。

 会社が計画した、車の安全運転講習に参加した時のことです。

 免許取得以来となる自動車学校に赴き、教官が助手席に座る中。

 教習車に乗り込んで、一般道を「普段どおり」に運転し、その後講評をいただく、というものでした。


 私の務める会社は60歳過ぎの方も多く、また、新入社員も車を運転した経験が少ない者も多く、今でも交通事故のみならず、自損事故が後を絶ちません。

 そういったものへの対策の一環として、自動車運転講習や安全運転講習といった講習会が数多く導入されて、久しく感じています。

 

 さて、実際に路上教習という名目で挑んだその時の私は。

 

 教習車に乗り込み、助手席や後部座席に誰かが座っているという中での運転は、やはり緊張するものです。

 ましてやそれが身内ではなく、教官や先輩社員という状況。

 仮免許取得、路上検定以来となる、十数年ぶりのシチュエーションでは、「変に意識せずに」と言われても、どうしても妙な緊張感は拭えませんでした。


 しかしそれでも、学ぶことはたくさんありました。

 

 それは、運転するに慣れてしまったが故、いかに「無意識的」であって。

 免許取得時はこれでもか、という程意識していたことを、すっかり忘れてしまっていたことを思い知らされる時間でありました。

 

 今回は車を運転する、という状況だけでなく、人間が生きる術として身に付けてきた「無意識的行動」の素晴らしさと。

 その裏に潜む恐怖や奢りについて、綴っていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 車を運転する時、動作を意識しているのだろうか

 

 

 

 普段クルマを運転する中で、「意識して運転する」ということはかなり限られてくるかと思います。


 例えば、発進時。

 マニュアル車の場合はクラッチを踏んだ状態でローギアに入れ、踏み込んでいたクラッチを少しずつ離しながらアクセルを踏み込んでいって、半クラッチ状態を経て動力をタイヤへと伝えていく。

 AT車であれば、ブレーキを踏んでミッションをPレンジからDレンジに移し、クリープ現象を利用しながら少しずつアクセルを踏んで加速していく。

 

 曲がり角や交差点を曲がる時はブレーキを踏んで、もしくはエンジンブレーキ併用しながら速度を落とし、曲がり角の角度によってハンドルを切る。

 

 

 そういうことを、いちいち意識しながら運転なんてできないかと思います。

 

 免許を取り立ての頃は、半クラッチだとか右左折時の後方確認を、教官に言われるがまま意識してやっておりました。

 

 しかし、今ではほとんど、特に考えることなく運転するようになっています。

 


 これは所謂、無意識での動作です。

 

 一度学習し習慣化したことは、頭で考えながら行うのではなく、身体が覚えたこととして、ほぼ自動的に行う。

 色々と思考することなく、身体が状況に応じて勝手に動いてくれる。

 

 私の思いとしては、こういった無意識的動作は人間という生き物が持ち得る、非常に優れた能力であると思っています


 こういった無意識的動作や行為は、運転に限らないかと思います。


 朝起きたら顔を洗い、歯を磨き、身だしなみを整える。

 中には特別意識して、念入りに行う方もいらっしゃるかもしれません。

 ですがこのようなことを、毎日毎日意識しながら行う人は、そう多くないと思っています。

 これもほとんど意識せず、習慣化されたことの一例と思います。

 

 そのような無意識、と対を成すもの。

 それは意識であったり、自覚的に行う動作であり。目の前の事象に対し視覚を始めとする五感で捉え、思考し、動作に移すことです。


 この割合が、無意識:意識=1~3%:99~97%と言われているそうです。
 それだけ特段意識することなく、物事を処理しているということになります。

 そうでなければ、ヒトという生き物は一つひとつの行動に対して思考、処理を行った上で行動として現れることになり。

 人間が持つキャパシティを遥かに超え、日常生活もままならなくなってしまいます。


 

 

 

 無意識が齎していたもの

 

 

 


 話を戻します。

 今回の講習を通して、無意識というものが優れている反面、怖いものであることを実感しました。


 その理由は、路上講習を終え、教官に言われた言葉でした。

「ブレーキが全体的に遅い。カーブ時も減速が遅めだから、もっと早めのブレーキを意識して」

 
 たった30分の、講習とは言え私なりの「普段どおり」の運転でした。

 しかし教官というプロフェッショナルの目は、私の「車を運転する」という無意識的動作の欠点を、完全に見抜いていました。


 言われた直後は「そんなことない、と思うんだけどなぁ」などと思いながら、愛車と共に着く帰路の中。

 日中教官に言われたことを、「頭ごなしに拒否しない」ようにし、私なりに意識して。

 俯瞰視点で見るような形で、いつもの帰り道を運転しました。

 

 すると、です。

 赤信号で、前のクルマが止まっているのに。

 頭の中では、減速が遅すぎる。このままではブレーキを強く踏まないと、追突する。

 でも、身体は思考に従うことなく、「普段どおり」に強めのブレーキを掛け、停車していました。

 

 交差点を曲がる時も。

 頭では減速が遅くて、明らかにオーバースピードのままコーナーに入ってしまう。もっと早く減速しないと、対向車線にはみ出す勢いで膨らんでしまう。


 しかし。

 身体は思考を無視して、「いつもの通り」ハンドルを切り、曲がっていく。

 案の定、曲がり切った時に初めて脳がようやく状況理解して、フロントが対向車線にはみ出ていることに気が付くのでした。

 

 昨日まで走ってきた、何気ない帰路が。

 まるで別の、全くの初見の道を走っている。そんな思いすら感じました。

 それでも、必死に考える中でも、身体は無意識のまま、「いつも通り」動き続けました。

 

 

 

 

 怖さを、感じた

 

 

 

 

 帰宅して、愛車のエンジンを切った途端。

 

 得体のしれない「怖さ」を、私は感じていました。

 いつもなら、仕事を終えて帰宅した「安堵」に浸るはずなのに。

 
 無意識に、ただ「何気なく」行っていた自分の運転が、怖い。

 しかし無意識下に置かれてしまった「運転する」という動作は、思考を容赦なく上書きしました。


 これが、今回のタイトルそのものです。

 

 喩え一度でも、「思考」を通すことなく自動化されてしまった動作。

 一時は恐怖を感じるようなことであっても、「無意識」の内に行われる処理は。

 たとえ意識していても変えることが難しいことを痛感しました。

 

 でも。


 私が今できることは、無意識で行っていた動作を「意識」して。

 上書きするように行い続けることで、少しでも変えていく。

 そんなことしかできなないのかな、と思っています。

 

 

 話は逸れますが、私の好きな歌の中で、こんな歌詞があります。

 

『失って気付くことさえ 人は繰り返し間違う』

 

 今日感じたことが自分にとってどれだけ大切で教訓としなければ、と思っていても。

 いつかは、忘れてしまう。

 もしかしたら、明日の朝には。


 だからこそ。

 備忘録として。何よりも、自分への戒めとして。

 

 今回の記事を綴らせていただきました。


 習慣化されてしまった無意識下の動作を、如何に思考して、意識して。

 それを変えていけるか。

 それが喩え、明日も、明後日も、週末も、それ以降もであったとしても。


 いつかは頭の片隅に置くことになるかもしれない今日の出来事を、考え続けて。

 出来っこないと勝手に決め付けることなく自分なりのやり方や考え方で。

 周りを、何よりも自分を護る為に、無意識を意識に変えていきたいと思っています。

 

 

 ※本記事は、車のSNSで上げた記事を基に綴らせていただきました。※

 

 

 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

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【生き方・人生の役割】裏方に徹する ~喩え、認められなくても~

 学生時代や新入社員時代は、一日が、一年が流れるのがとてつもなく長く感じられていたのに。

 一日が、一年という時間が、あっという間に過ぎ去っていく感覚を覚えています。

 昔から、「子供扱いされるのなんて嫌だから、早く歳を取りたい」と意気込むように生きてきた私ですが。

 今は、いい塩梅に時を過ごせているのかな、と心の隅で穏やかさのようなものを感じている、白兎です。

 

 皆様、こんばんは。如何お過ごしでしょうか。

 

 

 唐突ではありますが、「裏方」という言葉。

 この言葉を聞いた時、皆様はどのような印象を持ちますでしょうか。

 

 

 表舞台に立つことが少ない、やっていることに対して称賛されづらい存在。

 或いは、地味な立ち位置。

 そのようなこと思う方もいらっしゃるかと思います。

 

 

 私の場合、という限定的状況にはなりますが。

 私は仕事柄上、表向きに評価されたり、認められるようなことはほとんどありません。

 

 片や会社として、貢献度を数値的であったり、社会的影響度を鑑みて評価され、表舞台に立つ人を、沢山見て参りました。

 

 その傍ら。

 裏方に専念する者は、「できて当たり前」という評価が下され、少なくありませんでした。

 

 今でこそ鳴りを潜めるようになりましたが。

 「そうやって評価されない自分って、会社の、社会の端くれなのかな」

 と悩んだり、時には勝手に憤ることもありました。

 

 

 そのような経緯や今この瞬間に感じる、裏方に徹する生き方について、今回綴っていければと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 認められたい、気持ちの裏で

 

 

 このご時世では特段、社会的に、会社に貢献して。功績を残すことが重視される世の中になっていると、私は思っています。

 一方で。

 裏方や縁の下の力持ち、脇役といった立ち位置に、望まなくとも立っている方も少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。

 

 世間的に見ても、頭角を表し成功を収め、絶対的な地位や名誉を得た人だけが評価されたり、注目を浴びていると私は思っています。

 

 誰しもがそういった立場に立って、認められることを望んでいるのかもしれません。

  

 

 かくいう私は、と申しますと。

 裏方のような立ち位置を目指し、立ち続けて参りました。

 

 今ならはっきりと、そうしてきた理由を申し上げることができると思っています。

 しかし、自分と向き合って、本当にそれで良かったのかと自信を持って言えるようになるまでの私は。

 

 本当は、もっと人から認められて。

 称賛されて、目立つ立場に立つことを望んでおりました。

 

 他方で。

 そんな理想を目指そうとする私を、本能が止めるかのように。

 称賛されることを目論む自分を、あたかも引き止めようとするもう一人の自分がおりました。

 

 

 結果的に、私は仕事やプレゼンテーションを任された時も。

 全て空回りして、理想とは程遠い思いや周りからの評価を受けてきました。

 

 今では然程悩むようなことではありません。

 然れど当時は、「頑張っているのに、何で?」「自分なんかより、周りの方が優れているように見えているのか?」

 疑心暗鬼とも、妬みとも言える思いばかりを抱えていました。

 

 評価されたいと思う気持ちと、そうなりたくないという気持ち

 

 葛藤に葛藤を重ねて、私は自分をすっかり見失っていました。

 

 

 

 

 

  振り向けば、否定さてたくない自分がいた

 

 

 

 

 社会人になりたての当時から。

 否。

 本当は目立ちたくなんかない、と思いと相反する。

 私は学生時代から、目立ちたい、周りから評価されたい羨望を抱くようになっていました。

 

 色濃く残っている記憶では、中学時代の文化祭です。

 

 生徒会長始め、各委員の役員を務める生徒たちが文化祭の前戯と言える寸劇で場を盛り上げて。

 最後まで周りを巻き込む形で魅了し、注目を集めて、

 中学生時代という最後を飾る為に、輝いているかのようにさえ見えました。

 

 

 杓子定規のないと言え、周囲から賛同や評価を得ていた彼ら彼女らと比べて。

 

 絶賛イジメられていた私は、準備期間中でも忌避され疎まれた私には、とてもそんな場に参加されることも許されず。

 輝く人たちを、呆然と眺めていることしかできませんでした。

 

 

 しかしながら、その光景に抗おうとする気持ちも芽生えていたことも、また確かです。

  否定されてきた分、見返してやりたい程、目立ちたい。

 注目されたい。

 称賛されたい。

 

 

 

 ですが、当然と言えば然りかもしれませんが。

 当時の私は、逆に他人との溝を更に深めて。

 修復できない程の傷を貰うこととなりました。

 

 それまでも。そして、それ以降も。

 

 

 

 

 自覚したのは、高校生時代の文化祭

 

 

 

 切っ掛けが切っ掛けだった、とは言えど。

 他人に絶望した私は、誰も信じることができないまま、ただ学生時代が過ぎることをひたすらに望むばかりでした。

 表向きには中立的立ち位置を取りながら、奥底では周りを冷笑するかのように。

 

 歪んだ私を待っていたのは、学生という立場であれば切っても切れない。

 文化祭やイベントの数々でした。

 

 同級生が、クラスメイトが。

 どれだけ楽しんでいるように見えても。

 私の心は、少しも感化されることもないまま、冷えてばかり。

 

 

 そんな時、心すら揺れ動かなくなっていた私に転機が訪れました。

 奇遇なのか、それとも皮肉と呼べばいいのか。

 奇しくもそれは、文化祭の準備。

 

 過去体験した、文化祭というもの。私の中でそれは、苦痛と惨めさしか残さないものでしかありませんでした。

 

 クラスの出し物を決定するような時、私は只管沈黙を守るという姑息な手段ばかり取っていました。

 言い方は多分に悪くなりますが、「どうでもいい」とすら感じておりました。

 その時でも方針を決め、纏め役を司ったのは。

 

 やはり、クラスの中でも、同級生の中でも特段統率力やカリスマ性を持つ生徒たちでした。

 

 そこまでは、これまでとほとんど同じでした。

 出し物として決定したオブジェクトの図案作成、必要な材料、完成までの段取りや役割分担。

 時間が限られる中、文化祭に向けて準備が始まります。

 

 ところが、です。

 ある程度進み始めた中で、問題が発生しました。

 

 オブジェクトの材料としていたのは、発泡スチロールやペットボトルといったものばかりで、手だけでは加工ができないものばかりでした。

 その時必須となったのは、デザインナイフであったり、小型のノコギリ。

 刃物は使えば使うほど、切れ味が落ちていき、精密な加工が困難になっていきました。

 

 そんな中。

 当時私は、包丁を研いでで切れ味を戻すことで、母親の手伝いを陰ながらしておりました。

 その経験から、刃物を研ぐ術を独学で取得していました。

 

 文化祭の準備において、所々で「切れなくなった」「新しいナイフ、用意できないの?」といった声が聞こえて来る中。

 「切れ味、戻せるかも」と、私は勝手に学校に砥石を持ち込んで、切れ味が落ちてしまったデザインナイフや小型ノコギリを研ぐ、という異例な行動に出ました。

 

 端からみれば、奇異の目を受けられて然りでした。

 

 ですが、実際に切れ味が落ちた刃物が持ち込まれた際。

 周囲が追われるように準備に勤しむ中。

 私は、只管刃物と向き合って、砥石で研いで。

 研ぎ終えた刃物で、不要なダンボールで切れ味を確かめてから、「終わったよ」と手渡して。

 「おお、切れるようになった!」「ありがとう」と感謝の言葉を貰うことで。

 

 

 これだ、と確信しました。

 

 

 目立つようなことにしがみついて、自分を嘘偽って無理するよりも。

 目立たないところでも、誰かの支えになることができる。

 

 以降、切れ味が落ちた際には私の所にデザインナイフ・小型ノコギリを持ち込んでくれるようになり。

 自分の研ぐ感覚を信じて、それに神経を賭する。

 そして切れ味を取り戻したものを渡し、「ありがとう」という言葉の数々。

 

 改めて、私は確信しました。

 作品を称賛されることで、発案者や先導者が褒められることがあっても。

 私には、こういった影に徹することの方が向いている。

 裏方の方が、私にはお似合いだ。

 

 決して卑下する訳でもなく、表向きには認められるような人を妬むようなこともなくなり。

 

 裏方に、脇役に徹することが、私の生き方だ。

 

 異例と言われるかもしれませんが。

 そんな経験があって、今に至ることができていると信じています。

 

 

 

 

 表舞台に立つ人が、極少数である一方で

 

  

 

  とは言いつつ、社会人となった私は、やはり誰かに認められて、称賛されることを望んでいました。

 学生時代に確信した、裏方でいることの心地好さ。或いは評価されなくても、自分なりに感じた価値。

 

 私としては貴重な体験だったことをすっかり忘却するように、期待の若手、という言葉に乗せられるようにして、どうにか表舞台に立とうと奮闘してきました。

 

 ですが、やはり成果が出せなければ、評価はおろか、称賛など程遠い経験ばかり経て参りました。

 

 自分では頑張っている「つもり」の仕事やプレゼンテーションも。

 認められなければ、そんな人間や人材なんて、いらないのではないかな。

 

 私は、また過去に囚われるようになって。

 成功者や表舞台に立てる人は少ない、そして、私はそんな器ではない。

 

 私はもう一度、生き方に、人生の役割に惑うことになりました。

 

 一度は克服した、つもりだったのに。

 

 

 

 

 

 目立たなくても、認められなくても

 

 

 自分を追い込むに追い込んで、ついには精神を病んだ私は。

 またもや、周りの上司や先輩、後輩から向けられる視線ばかり気にして。

 その度に、「私なんて、どうせ」と卑下する毎日を送っていました。

 

 

 何も変えられずにいた私に。

 二度目となる転機。

 

 それは、定年退職してしまう上司が担っていた役目を引き継いでくれないか、という声掛けでした。

 

 その人が十数年続けていたことは、社内システム……言わばエンドユーザーシステムの管理・運用でした。

 

 直接的に社会へ貢献したり、影響を出すようなものではない、言わば縁の下の力持ちの役割でした。

 元々そういったものに興味を持っていた私は、上司陣に囲まれる中「やります」と答えました。

 

 答えたのは良いものの、実際は物凄く複雑かつわからないことだらけでした。

 各社員に貸与されたPCやファイルサーバへのアクセス権の管理、トラブル発生時の対応。そして本社からの依頼という名の実施・報告義務。

 

 興味だけで踏み入れたその役割は、裏方という言葉だけではとても片付けられないものばかりでした。

 正直、何度も投げ出したい気持ちになりました。

 

 でも。

 

 トラブル発生時に、経験やネット上の知識を借りてでも解決した時に言ってくれる、「ありがとう」という言葉。

 右も左もわからないながらも、その手の件について詳しい人とやり取りし、やり遂げた時の「よくやってくれた、ありがとう」の言葉。

 システム更改に伴い、社内が混乱し困惑する阿鼻叫喚の中で。

 私なりにやれることを尽くし、憂いを晴らすことができた際の「助かったよ、ありがとう」の言葉。

 

 

 社会的であったり、会社的貢献として称賛されたり評価されることのない、裏方の仕事。

 今は、そんな役割に着くことのできた自分を蔑んだり、嘆いたりすることなく、素直に「これが、私の望む道だ」と認めることができるようになりました。

 

 表向きには、認められることはないとしても。

 困っている誰かの役に立てることであったり。

 自分の居場所を見出だせるのであれば。

 

 理由は様々であったとしても、他の誰でもない自分が納得して従事できるのなら、決して悪いことではないと思っています。

 

 私は、裏方が決して影に徹していようとも、大体的に褒められるようなことがないことは承知の上でも。

 学生時代に感じ、今でも掛けてくれる。

 誰かの「ありがとう」という言葉。

 称賛されたり認められること以上に、そのような掛け替えのない思いの数々の方が私にとって価値のあることであり、励みになるものであると、私は信じています。

 

 

 

 

 今回も御閲覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

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【HSP・HSS】HSS型HSP ~繊細と好奇心の狭間~

 先日、心療内科を受診して参りました。

 普段は前回の受診から何か変化があったかどうかや、薬の調整をお話しして終わる、短い時間です。

 私の通っている心療内科は主治医の先生はとても寛容的で、診断する側の意見や治療方針を押し付けてくるような方ではなく、受診する側の話を聞き入れてくださり、薬の種類や分量もこちらの意見要望を取り入れた上で決定してくれます。

 時には、心療内科の経営状況や精神科学会の話までしてくださり、先生の愚痴を聞くような関係を保っています。

 先生と受診者という主従関係ではない、対等な立場でお話しすることができるその心療内科に通い始めて、早くも五年以上経ちます。

 

 今通っている心療内科は、セカンドオピニオンを介して通い始めております。

 

 最初通った所は受診する側の意見を特段聞くこともなく、状態を聞いただけで薬を処方するだけという、ある意味事務的とも言える対応であったと私は思っています。

 如何にも受診する側を「異端者」扱いし、「処方した薬をきちんと飲むように」といった、半ば命令されているような姿勢でした。

 

 あまりにも機械的なそんなやり取りに、私は嫌気が差し、通院先を変えることを決意するまでに時間は掛かりませんでした。

 

 今思えば、セカンドオピニオンを選択したことで、私が理想とする主治医に出会うことができたことは奇跡的であり、ありきたりな言葉を用いるなら……運命的なことでした。

 

 そんな出来事は置いておくとして。

 私は好奇心旺盛なところがあり、処方される薬のことだけでなく、精神科が出す薬について興味を抱く傾向があります。

 自ら進んで調べ、抗うつ薬や抗不安剤、睡眠導入剤の種類。数多くある存在する薬品の名前を知って、効果や副作用を素人ながら知った上で。

 「この薬を試してみたいのですが」と、自分から進んで処方していただいたこともありました。

 処方される薬のことを、ましてや自分が服用するものがどんなものであるか位は、俯瞰的であっても知っておきたいという思いがありました。

 その上で、主治医という専門家から説明をしっかり受け、専門家の意見と素人の意見を交え、服用後の経過報告や実際の効果や副作用について話を積極的に行って。

 今に至っています。

 

 

 前置きが長くなりましたが。

 

 私はHSPであると自認していることは、これまでの記事でも触れて参りました。

 

rayleonard-00.hatenablog.com

 

 一方で。

 私は好奇心が妙に大きかったり、席に座ってじっとしていられないといった、HSPではあまり見かけられないものを抱えていることに気付き始めました。

 

 繊細、と世間では言われてる、HSP。

 私の中でのHSPは、敏感さ故に外界に恐怖すら覚える故に生きづらさを覚え、内向的で静かな場所を好むものである、と定義しています。

 

 ところが実際の私は、そういった性質を自負していながらも、外界に興味を抱き、普遍的で平穏な日常を時に嫌うことさえあります。

 

 一見、矛盾していて、共存などあり得ないと思える性質たち。

 然れど、双方の性質を持ち得る人間が存在すると言われております。

 

 それが、HSS型HSPと呼称されるものです。

 

 今回は、五感からの刺激の敏感さ故に苦しむと共に、共感性を持つと言われるHSPと。

 その真逆とも言える、自ら外の世界へ飛び出て刺激を求め、平穏な日常に飽き嫌ってしまう性質であるHSS。

 それら二つを包括するHSS型HSPと呼ばれるものについて、綴っていきたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 HSPのおさらい

 

 

 本題に入る前に、簡単にHSPというものについて軽くご説明いたします。

 かつて記述した記事を引用しますことは、どうかご容赦ください。

 

 HSPそのヒトが生まれた瞬間から先天的に持ち得る「性質」のことを指すと言われています。

 その性質とは、「深く処理する」、「過剰に刺激を受けやすい」、「感情の反応が強いと同時に、共感力も強い」、「些細な刺激をも察知する」。

 人により差異や強弱はあれど、これら4つのを「自覚・自認」して初めて、HSPであると言われています。

 ここで私が、敢えて「自覚や自認」と記したことには、理由があります。

 

 心や考え方、物事に対する感じ方が「人と少しズレている」思っても、他人からは簡単に理解されることはそう多くありません。

 喩え言葉にして「何だか、皆と違う気がするんです」と言ったところで。

 「気のせいじゃないの?」だとか「思い込みだろ」と一蹴されかねない。

 

 生きていく内に、どこかで「人と違うような気がする」と自覚し、それがいつ日か「人と違う」と思うが故に生きづらさや息苦しさを覚えていき。

 最悪、「周りが普通で、自分がおかしい」と歪んだ認識さえしてしまいかねないもの、それがHSPという気質であるのではないかと私は思っています。

 

 

 当たり前なことなのかもしれませんが、ウイルス検査といった物理的手段を用いて判断できるようなものではありません。

 飽く迄も「五感からの刺激が昔から妙に強かった」とか、「話をしている相手に、勝手に感情移入してしまう」といったことは、他の誰でもない、自分しかわからないことであると、私は考えています。

 私からすれば、自分以外からの人間から、そういった「生きることに対する違和感」を何らかの杓子定規を用いて判断や診断されることの方が不自然と思える程です。

 

 ですが、刺激に対する敏感さや繊細さによって「生きづらい」と思うこと。

 人と比較するのではなく、自分なりでも構わないと思います。

 「世間的一般論」と呼ばれるような規範がある中で、少しでも違和感を覚えた時点で。

 その瞬間は思い込みだったり、勘違いだと思っても良いと思います。

 ですが、そうした違和感を感じるようなことが一時でもあったのなら。

 一人で抱え込んで、「自分だけおかしい、独りだ」という思いを抱かないで欲しい、と勝手ながら、私は願っています。

  

 

 

 

  HSSとは

 

 

 おさらいが長くなってしまいましたが、改めて本ブログで初登場した「HSS」というものが何かを、私なりに簡単にご紹介いたします。

 詳しく言及されている方も沢山いらっしゃいますので、詳細は検索していただければ幸いです。

 HSSとはとはHigh Sensetion Seeking』の頭文字を取った用語であり、簡単に訳すと「刺激を追求する」気質のことを指します。

 

 

 これが何を意味するか。

 端的に言えば、HSPと定義する真逆の性質であると言い換えることができます。

 「好奇心が強い」、「外界に刺激を求めることを厭わない」。

 そして、「現状という状況に飽きっぽい」と言われています。

 

 もう少し踏み込んで、具体的な例を上げると。

 「何もしないで、じっとしていることが苦手」であったり。

 一般論を語るような会話はとてつもなく退屈に感じる」ことであったり。

 「人からすればどうでもいいようなことであっても、自分が惹かれるような出来事に遭遇した時、時間や周りをそっち抜いてまでのめり込むこともある」

 

 簡単に言えば、外界に刺激を求める外交的思考・性質。それがHSSです。

 

 ここで、違和感を覚えた方もいらっしゃるかと思います。

 先述したHSPと、まるで矛盾しているではないか。

 ご尤もな意見です。

 

 しかし、現実にはあり得るのです。

 

 HSPの繊細さや内向的思考、慎重さ。

 HSSの外界へ興味関心を求める姿勢や大胆さや飽きっぽさ。

 

 双方を包括する人間が、実際に存在しています。

 その一人が、私のような人間なのです。

 

 

 

 

 五感の刺激に臆することなく、好奇心と大胆さ任さに突っ込むこともあった

  

 

 

 これまで私は、五感の中でも「聴覚」からの刺激が特段敏感で。

 それ以外でも、視覚や嗅覚から入ってくる刺激が強すぎる余りに。

 外界から取り入れ、処理する五感や脳。それに一々反応して疲れ疲弊していた自分に辟易しておりました。

 

 だがしかし、一方で。

 何気ない日常から私感じ続け、自分にとって脅威だらけの外の世界へと飛び出していたことが、実は多くあります。

 

 例えば、仕事を終え帰路に着く際。

 毎日同じ順路に拘ることなく、敢えて遠回りするルートを選んで、愛車との時間を少しでも長く過ごせるよう、帰り道を変えることが日常茶飯事です。

 帰宅後は、夕飯を終え身内と談笑したりしなかったり。

 お風呂にすぐ浸かることもあれば。湯船に浸かることを後回しにして、動画を視聴して笑いこける日もあれば、ブログを書くことに熱中し過ぎるあまりに就寝時間を大きく削ってしまうこともあって。

 或いは、ゲームアプリに只管のめり込んで、いつの間にか時間を忘れてしまうことも。

 

 本来人間は、自分なりのルール。所謂ルーティンをこなすことで精神の安定を図っているとも言われています。

 起床したら歯を磨いて、朝食を終えて、着替えて、決まった通勤ルートを使って会社へ行く。

 帰宅したら、夕飯を食べてお風呂に浸かって、自分なりの娯楽を楽しんでリラックスして、就寝時間が来たら寝床に着く。

 

  

 しかし私は毎回そういった同じ生活習慣を送ることはありませんでした。

 

  

 それだけではありません。

 私を変えてくれるきっかけとなった、クルマのオフ会。

 最初は新鮮でしたが、回を追うごとに同じような内容を只管繰り返していることに気付きました。

 言い方は悪くなることは承知の上ですが、単に馴れ合うように雑談して終わるような集会であることを、といつの間にか思うようになりました。

 

 そして、そんなものは……詰まらない時間だ、と考えるに至りました。

 

 特別なイベント内容や場所でなければ、新しい出会いや発見、興味が惹かれることは、私はそう多くありませんでした。

 

 そんな思いから、時間を経るごとにオフ会に参加する機会は減っていきました。

 

 勿論、全てが全て面白みがなかった、と断言することはできません。

 その時々でお会いしたり、再会する人たちとの会話や交流は、固着化することなく新鮮で楽しくて。

 何よりも、自分以外の人間と交流できる場に参加できるようになったことを、喜ぶと共に楽しい時間を過ごすことができました。

 

 ですがそれ以上に。

 共通の趣味や趣向を持つ集まり、ということに留まることなく。

 もっと深い、私という人間以外の。

 一人一人が持つ個性や考え方と言ったものに触れていきたい。

 そんな好奇心の我儘とも、好奇心の塊と言えるようなもの。

 ただの気分屋と言われても仕方がないことは自負しています。ですがそういったものが、集団的な集まりによる安心や結束以上の、好奇心を満たすものを無自覚のまま求めておりました。

 

 

 

 

 自覚し始めた、HSS型HSP

 

 

 

 

 HSPは、どうしても「臆病」だとか「慎重」というレッテルを張られがちであると、私は思っています。

 外界は刺激だらけという中、HSPを自認する人間からすれば。

 過剰過ぎる程の刺激から身を守る為、距離を置いて一人の時間を保たなければ身が持たない。

 自分や周囲の変化に弱いのみならず、勝手に感情移入してしまう共感力。

 そういったものから自分を守る為に、自分の意識を内側に向ける内向的思考。

 それ故、余計に理解されづらくなって。

 いつしか「非協力者」として排他されることも少なくないのかもしれません。

 

 周りはどうであれ。そのような感覚や感情を抱いたまま生きて参りました。

 

  

 そう思って信じてきた、にも拘らず。

 時として、沸き立つ好奇心に抗おうともせず、私は自分以外のものに刺激を求めてきました。

 

 過去を振り返れば、尚更HSPという枠では収まらなかった自分がいたことを認識でき、より自覚することができました。

 

 給食の時間は、私からすれば「食べる」の為にじっと座り込んで、談笑を交える以外に何もできない苦痛の時間でした。

 食べることに集中できず、もっと別のことをしたい。

 小学生の頃から思い続けていたことを、今でも感じ続けています。

 

 学校での授業でも。

 教科書を読めば済む内容をただ読み進めるだけの教師の講義であれば。

 聞いている振りをして、内容は少しも頭に入ってくることはありませんでした。

 挙げ句、当時から書こうと続けていた小説の骨組みや肉付けのことで一杯になることもあり、まさに「聞く耳持たず」といった姿勢を貫いて折りました。

 

 

 最近のことを例として挙げるとするなら。

 外食で食事中、そしてそれが終わった後の雑談。

 会話が弾めば特段意識するようなことはありませんが、身内でのそういった機会を目の当たりにした際。

 食後の余韻に浸り、「美味しかった」だとか「次は別のものを食べてみたい」と談話する時間でさえ、私はいてもたってもいられない「衝動」のようなものを覚えてしまいました。

 じっと座っていられない。すぐに次の場所へ行きたい。

 ウズウズすると言うか、悶々とすると言えばいいのでしょうか。兎に角、そこに居続けることを嫌い急かそうとする。

 自分でも制御できない、身体の奥底から湧き上がるような衝動を抑え込むことが、苦しいとすら感じる時間でした。

 

 或いは、休日を迎えて身体を、精神を休めようと自室でゆったりしようとしても。

  適当な動画をラジオ感覚で流して過ごすようなことは、私にはできません。

  先述したように、ブログの下書きをしたり、スマホゲームを進めようとしたり。

 喩え下らないことであっても、「何かしていないと落ち着くことさえままならない」。

 兎にも角にも、私の場合は「興味がないものには一切の関心を向けず、自分が好きなこと」ばかりに従事し、押し通して参りました。

 

 

 

 今思えば。

 刺激に敏感で、繊細と言われ。

 一人の時間を保たなければ自分という存在を守れない、HSPという気質を自覚しながら。

 好奇心の強さだけでなに留まらず。

 私は自分以外の何かに刺激を求めるばかりに、他の人なら上手く自分の身の安全を確保するところを……。

 繊細さと好奇心の狭間を行き来する、不器用な生き方であるが為に。

 碌な対策もせず、自分では得られると思えないと勝手に信じて。

 闇雲に外界に何かを求めていたのかもしれません。

 

 しかしながら、今なら確実に言えることもあります。

 馴れ合うことで満足する位なら。

 気分屋だとか、異端と罵られれも。

 もっと深い仲を築きたい。その思いがあったことは、事実です。

 その思いと願いに従って、行動した結果。

 表面的だけでなく、気の置けない人との交流を深め、いつしか親友と呼び合える仲になることができました。

 

 

 繊細と好奇心の狭間

 

 

 ここまで申し上げてきた通り、繊細さ故に守りに徹しようとする自分がいる。

 片や、時としてそんな守りを蔑ろにしてでも、沸き立った好奇心から闇雲に外界へと突っ走ってしまう自分。

 言葉では語り尽くせませんが、私は矛盾する双方を抱えていると自負すると共に。

 どちらも意志や理性で制御し周囲に、社会に適合できるだけの器用さを、私は持ち得ておりません。

 両極端の気質を持つ故、未だに自分というものを把握し、それ相応の振る舞いができずにいます。

 そして時々、「私って、どういう人間なんだろう」と不意に思いついては悩むこともあります。

 

 

 端から見れば、気分屋にして変わり者、そして反骨精神旺盛と思われている、と俯瞰的角度から勝手に解釈しています。

 

 然れど。

 「害の無い普通の人」と認識される位なら、それ位極端な認識を持ってもらう方が却って都合が良い。

 寧ろ、そう言われることを喜んでいる自分がいます。

 

 私の中では、時として悩んだり、苦しんだり、自分というものを見失い掛けることばかりであっても。

 周りからそうやって認知して貰えることが、繊細と好奇心の狭間で揺れ動く私を定義してくれることによって。

  

 

 格好良く、「私はHSS型HSPなのです」と言って、変に気遣われたりするよりも。

 気分屋で、変わり者、反骨精神旺盛な面倒くさい人間。

 そう思われる方が、私のような人間を定義し、認識されるにはいい塩梅なのかもしれません。

 

 この記事をご覧になって、もし同じような思いを抱いたり、親近感のようなものを覚える方がいらすのでしたら。私が言えることは、唯一つです。

 

 全く同じではないのかもしれません。ですが、このような変わり者の私も、何とかここまで生き長らえています。

 認めることは難しくても、少なくとも私のような人間でも、それなりに生きることを楽しんでおります。

 

 この記事を少しでも知っていただき、励みのようなものとしてお考えくだされば、この上ない幸いなことです。

 

 

 長々と綴って参りましたが、今回も御覧くださり、ありがとうございました。

 それでは、また次回まで。

 

 

 

 

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